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「母親が淹れてくれた、あの一杯の温かなお茶が飲みたい」が原点。タイガー魔法瓶「家庭から宇宙まで」の100年

ビジネス

今から100年前の1923年に大阪で誕生したタイガー魔法瓶。時代ごとの画期的開発やヒット商品には枚挙にいとまがないが、近年ではさらなる未来に向けた「宇宙」向けの製品開発にも注力し、「魔法瓶」「ボトル」の分野を今も推し進める一大企業である。

今から100年前の1923年に大阪で創業したタイガー魔法瓶。その変遷とストーリーに迫る

ここでは、タイガー魔法瓶・広報宣伝チームの林優紀さん解説のもと、これまでの100年間で誕生した数々の画期的開発やヒットの変遷に迫りつつ、さらなる未来にかける同社の取り組みも紹介する。

「母が淹れてくれた温かいお茶」への回顧と、団らんへの憧れ

タイガー魔法瓶・広報宣伝チームの林優紀さん

林さんによれば、100年前に誕生したタイガー魔法瓶(創業時は、虎印魔法瓶製造卸菊池製作所)には、創業者のある原点があったという。

創業者は、幼少時代を奉公生活で過ごした。その際にいつも頭に浮かべていたのは「母親が淹れてくれた、あの一杯の温かなお茶が飲みたい」という思い、そして団らんへの憧れだった。

「創業者の『魔法瓶』との出会いは、初めて大阪に出た奉公時代の1910年。あるメーカーが輸入し大ヒットした『テルモスびん』と呼ばれる魔法瓶でした。冬場に冷めたお茶をご飯にかけて食べる奉公生活の中、『母親が淹れてくれた、あの一杯の温かなお茶が飲みたい』という団らんへの憧れと合わせて、真新しい魔法瓶を目の当たりにし、将来性のある商品として魅力を感じました」(タイガー魔法瓶・林さん)

そんな苦労のもと、創業者はとある魔法瓶業者での経験を経て、虎印魔法瓶製造卸菊池製作所を1923年に創業。日本国内向けに「虎印」の魔法瓶の製造・販売を開始することになった。

1923年に販売されたタイガー魔法瓶の「虎印」魔法瓶

創業時の商標登録証

関東大震災で1本も割れず、その品質の良さが広まった

創業者が開業と同時に注力したのは独自の魔法瓶開発。「持ち運びしやすく、美観と強度を保った胴体ケース」を着想に、新しいアイデアと工夫を結集した虎印魔法瓶を発売。「耐久性五倍力」をうたった虎印魔法瓶は、発売時の触れ込みの一つであった「アフターサービス」も奏功し、発売から半年で京阪神のシェア70%を占めることになった。

これをきっかけに後に東京にも進出を果たしたが、東西の商人の気質ギャップなどもあり、すぐに芳しい結果は得られず、一週間で50軒から取り引きを断られるなど辛酸をなめたという。

しかし、1923年に関東大震災が発生。これをきっかけに結果的に虎印魔法瓶の優れた品質が多くの人に評価されることとなった。

「1923年の関東大震災はマグニチュード7.9の大地震で、魔法瓶を扱う問屋の倉庫内も強い衝撃を受けました。保管されていた他社製品の大半が破損した中で、100本納められた虎印魔法瓶だけが1本も壊れなかったのです。

この事実が業界中に広まり、虎印の品質の高さが知れ渡ると、瞬く間に注文が殺到。3年後には東京でのシェアが85%に至りました」(タイガー魔法瓶・林さん)

しかし、こういった絶大な支持におごることなく、ここまでに培われた技術を用いた様々な容器の開発を行い続けた。意外に知られていないのが乳瓶、酒の冷めない魔法瓶。そして、アイスクリーム容器、アユ釣り用容器といったものの開発だ。

「1931年には口の部分に哺乳用の乳頭をかぶせた乳瓶(保温哺乳瓶)、『酒の冷めない魔法瓶』をうたった魔法瓶徳利を贈答用にセットで売り出しました。しかし、奇抜な取り合わせのためか、売れ行きはあまり振るわなかったと聞いています。

また、1932年になると、アイスクリームの店頭販売容器を発売。洋菓子店や病院・駅の売店用によく売れ、アイスクリームの大衆化に貢献しました。大正初期頃には夏になると、魔法瓶を持ってわざわざ銀座の有名洋菓子店でアイスクリームを買いに出かける家庭もあったそうです。

さらに、1935年には釣った魚を冷蔵して運ぶためのアユ釣り用の魔法瓶を販売。『渓流魚の釣果を冷蔵して運べます』と釣り人向けに発売した広口瓶です。魔法瓶を扱う金物問屋からは『販売対象外』と断られましたが、各地の主要釣り具店を回り、直接取引をして注文は月ごと年ごとに増えていきました」(タイガー魔法瓶・林さん)

1930年代、台湾と旧満州国の貿易にも乗り出した。写真はこの時代の輸出向けラベル。結果、内地・外地の販売比率がほぼ同じとなった時期もあった

保温用電子ジャー、炊飯電子ジャーなどで市場を切り開く

1950年に発売したハンディポット「ベークライト製卓上ポット」

また、終戦から5年が経過した1950年には「ベークライト製卓上ポット」というハンディポットを発売。「魔法瓶といえば携帯用」と考えられていた時代に、ペリカン型注ぎ口と、ワンタッチでフタがあく持ち手がついた卓上湯差し(ポット)とし、さらにそれまでは「魔法瓶の難点」の一つとされていた水切れの悪さを解消。以後、多くの人が日ごろより使っているハンディポットの草分けとなった。

1923年の創業から30年で、多くの人々の生活改善に寄与したわけだが、1953年には「タイガー魔法瓶」に商号を変更し、さらなる飛躍を目指した。

1953年の商号変更以降、さらに製品化を加速させた。写真は1958年、業界初のJIS工場指定を受けた際の大阪市城東区の工場

1964年に新幹線のビュッフェで採用されたステンレスジャー。茶碗160杯分のご飯を保温する機能を有していた

「1964年には、当社のステンレスジャーが新幹線のビュッフェで採用されました。

また、1970年には、今日の電気で保温するジャーの第1号商品となる電気ジャー『炊きたて』を発売。発売当初から爆発的な人気を誇り、一躍トップブランドの地位を確立しました。

さらに1974年には、炊飯電子ジャー『炊きたてダブル』を発売。これは現在の炊飯ジャーの第1号商品となりました。

これら『高機能』『使いやすさ』をどこまでも追求する商品開発は、今日まで引き継がれ、時代ごとに画期的な機能を提案し続けてきました」(タイガー魔法瓶・林さん)

電気で保温するジャーの第1号商品となった「炊きたて」

時代の象徴として今も知られ続けるデザインとキャラクター

また、技術面で業界をリードし人々の生活を変えただけでなく、デザインやキャラクターによって時代を象徴することになったのもタイガー魔法瓶の特徴の一つだ。

特に1970年代を象徴する「花柄デザイン」は、ブームに先駆け1967年よりタイガー魔法瓶では採用していたという。

タイガー魔法瓶の製品に施された「花柄デザイン」。写真は1974年に発売された炊飯ジャーの第1号商品「炊きたてダブル」

「テキスタイルデザインの第一人者、関留辰雄(せきどめたつお)先生による花柄デザインを1967年(昭和42年)からポットのボディにあしらい、1970年(昭和45年)発売の電気ジャーにも花柄を採用しました。

また、1977年にはオレンジストライプ柄を初めて採用し、1979年にはストライプ柄を含む電気製品7点をシリーズ化して一挙に発売しました」(タイガー魔法瓶・林さん)

今年は、100周年を記念して「花柄デザイン」「ストライプデザイン」の製品が「レトロ柄復刻シリーズ」として登場した

さらに1965年の発売以来、絶大な支持を誇り続け、後に復刻されることになったかき氷機の「きょろちゃん(『ベビーアイス<きょろちゃん>ABB型』)」にも注目したい。

かわいい熊を模したデザインで、かき氷を削る際、ハンドルを回すと、その目がきょろきょろと左右に動く仕組み。その愛らしい外観と動きは、日本人の多くの心に刻まれただけでなく、後に外国人からも支持を集めることとなった。

モデルは三代まで続き、後には多くのニーズを受けて復刻した。2016年、人気の高かった三代目(1978年)モデルを復刻

「2016年に、38年ぶりに復刻した際には、ニューヨーク近代美術館『MoMA』のデザインストアで販売されました。きょろちゃんは国内けでなく、海外での『TIGER』の知名度アップにも貢献してくれました」(タイガー魔法瓶・林さん)

ガラスからステンレスへ…1981年の大転換

話を魔法瓶に戻すと、タイガー魔法瓶では、従来のガラス製からステンレス製へと転換を図った時期がある。1981年のことだ。

「1981年、当社初のステンレス製魔法瓶を発売しました。ガラス製に比べ2倍を超える小売価格でしたが、発売2年目くらいから上伸をはじめ、その後に前年を上回る成長商品となりました。

また、魔法瓶業界で見ても、1985年にはついにステンレス製の国内向け携帯用魔法瓶出荷総数がガラス製を上回るという急成長を見せました。

当社のステンレス製魔法瓶が急速に普及した理由は『割れない』という大きなメリットです。そして、研究努力により保温力の増強、コンパクト化、軽量化など商品のベースになる性能を向上させたことも普及した理由でもありました」(タイガー魔法瓶・林さん)

1986年に発売し、ステンレス製魔法瓶のヒット作となった「サハラスリム」

家庭だけでなく、宇宙向けの製品開発も

こういった経緯を経て、タイガー魔法瓶の製品とその名は、多くの日本人に知られることになったが、2010 年代以降には家庭向けだけにとどまらず、宇宙対応の製品を発表し、宇宙事業関係者からも絶大な評価を受けることになった。

「2018年、こうのとり7号機搭載JAXAの小型回収カプセル内の真空二重断熱容器を開発しました。

JAXAが宇宙ステーション補給機『こうのとり』7号機へ搭載のために開発した小型再突入カプセルは、国際宇宙ステーション(ISS)から地上に物資を回収するためのものです」(タイガー魔法瓶・林さん)

大気圏に再突入する回収カプセルには、高い断熱性能と強度が求められるが、ここでタイガー魔法瓶の知見が大きく活かされることとなったというわけだ。

そして、2021年にはタイガー魔法瓶が開発に携わった「真空二重構造断熱・保温輸送容器」搭載のSpaceXの宇宙船「ドラゴン22号機」が無事に帰還。改めてタイガー魔法瓶の技術の高さを世界中に知らしめることにもなった。

「科学技術・人類の発展に寄与できた『誇り』は、何ものにも代えがたい価値があります。魔法瓶の潜在的な可能性を引き出していただいたという感謝の気持ち、まだまだ追い求めるものがあるという挑戦者としての気持ちが、社内全体に改めて広がるきっかけにもなりました」(タイガー魔法瓶・林さん)

100年以降の未来にも「世界中に幸せな団らんを広める。」

100年以降の未来も、引き続き誠実・実直なものづくりを続けるという

かなり足早ではあるが、タイガー魔法瓶の100年の変遷を紹介した。どの時代でも現状の成果だけにとどまらず、常に何歩も先を見据えた開発を続けてきたことを理解いただけると思う。

林さんによれば、タイガー魔法瓶が創業時から掲げる思い・ビジョンはずっと変わることなく、さらなる未来にも大切にしていきたいという。

「この100年間、温かさ・冷たさ、それを守る品質といった、温度に向き合い続け、人々の生活に寄り添い、笑顔と団らんを生みだすことを通し『社会の役に立つこと』を目指してきました。

これからの100年もその想いは変えずに、当社ならではの誠実・実直なものづくりの姿勢を大切にしていきたいと思っています。

そして、『真空断熱技術』『熱コントロール技術』を基軸とした『高次元の熱制御テクノロジー』にさらなる磨きをかけ『世界中に幸せな団らんを広める。』ことに今後も貢献していきたいと考えております」(タイガー魔法瓶・林さん)

創業時の「母親が淹れてくれた、あの一杯の温かなお茶が飲みたい」というアツい思いは、100年を経過した今もずっと変わらないように思った。そして、その思いのもとで次々に革命を起こしたタイガー魔法瓶の製品の素晴らしさも改めて認識することになった。

これから先の100年にもきっと、多くの人々の生活をより豊かにしてくれる製品開発を行なっていくであろうタイガー魔法瓶。さらなる未来にも大きな期待を寄せたい。

<取材・文/松田義人>

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タイガー魔法瓶
https://www.tiger-corporation.com/ja/jpn/region-top/
 

音楽事務所、出版社勤務などを経て2001年よりフリーランス。2003年に編集プロダクション・decoを設立。出版物(雑誌・書籍)、WEBメディアなど多くの媒体の編集・執筆にたずさわる。エンタメ、音楽、カルチャー、 乗り物、飲食、料理、企業・商品の変遷、台湾などに詳しい。台湾に関する著書に『パワースポット・オブ・台湾』(玄光社)、 『台北以外の台湾ガイド』(亜紀書房)、『台湾迷路案内』(オークラ出版)などがある

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