牛丼は124年前に「吉野家」で発祥!今後は「牛丼とから揚げの店になりたい」
牛丼チェーンで最も歴史がある吉野家。その創業は今から124年前の1899年に遡る。それまで「牛肉を食べる習慣」がなかった日本人だが、明治時代の文明開化の流れで牛肉を食べるようになり、一時流行った「牛めし」をより美味しく、安価で、早く出せるものとして、吉野家によって考案されたのが牛丼だった。
つまり、牛丼の歴史イコール吉野家の歴史になるわけだが、今回はその知られざるストーリーについて、吉野家・広報で、自身も店頭で牛丼をふるまっていた経験もある茶木翔太さんに解説してもらった。
目次
「食のプロ」向けだった吉野家。「つゆだく」「つゆぬき」は創業当初からあった
1899年、吉野家が最初にオープンしたのは当時、日本最大の魚河岸として知られていた東京・日本橋にあった市場内。吉野家の牛丼は当初「食のプロ」向けに提供していたと言い換えても良いだろう。
「そう言って良いと思います。魚河岸で働く人々は、舌が肥えていて日常的に『美味しいもの』を食べているわけですが、そういった方々に『うまくて、早く出る』どんぶりを提供すべく、吉野家の牛丼が誕生しました。
考案したのは創業者の松田栄吉という人物で、もともと松田自身が料理人だったこともあり、当初より有田焼のどんぶりに盛り付けることにこだわっていたと聞いています。また、当時、『男性がどんぶりをかき込む姿』が粋に映ったところもあり、吉野家の牛丼スタイルは食のプロたちにおおいに支持されました」(吉野家・茶木さん)
「食のプロ」たちに支持された吉野家だが、実は市場時代より吉野家特有のオーダー術「つゆだく」「つゆぬき」といったものが存在していたという。
「創業時から『食のプロ』の常連のお客さまから、こういったオーダーを受け、その都度対応していたと聞いています。
私自身も、築地の店で働いた経験がありますが、しばらく店頭に立っていると、常連のお客さまが連日来てくださることがありました。こういった際、その常連のお客さまの好みである『つゆだく』『つゆ抜き』といったことを覚えておいて、その仕様にしてお出しすることもありました」(吉野家・茶木さん)
牛丼を改良し、国内外にチェーン展開を果たした創業者の息子
順調に手厚い支持を得続けた吉野家だが、創業から27年後の1926年に関東大震災が発生し、日本橋の魚河岸が大打撃をくらい、わずか1店舗だけだった吉野家も焼失してしまう。
しかし、魚河岸が日本橋から築地へと移転するに伴い、吉野家もいち早く復活。店舗営業を再開することになった。しかし、苦難はさらに続き、1945年に起きた東京大空襲によって再び店舗を消失。終戦後に屋台として復活するが、創業からこの時期までの約50年弱は、あくまでも「市場にある吉野家」のままだった。
そんな中、松田栄吉の息子である松田瑞穂という人物が吉野家の経営に参画。以降、吉野家は一気に飛躍を遂げることになった。
「松田栄吉は料理人でしたから、『うまい』を追求していました。一方、息子の松田瑞穂はビジネスの才覚がすごくあった人物で、この時代から吉野家は少しずつ変わっていきました。
松田栄吉時代の牛丼は、糸こんにゃく、豆腐といった他の具材も入っていました。しかし、松田瑞穂はより多くの店舗を増やすために、本当に必要な、なくてはならないものは何かを追求しました。そのときに、今の牛丼に近い牛肉、玉ねぎ、タレというシンプルな構成にしました。そのほうが『うまい』味を保つための安定感を出せること、そしてお客さまがより求めているものを追求したんですね」(吉野家・茶木さん)
さらに、松田瑞穂はアメリカで流行っていたビジネスモデルである「フランチャイズ」というものを知り、これに伴って1968年2号店としてに新橋店を出すことにした。また、1972年には飲食業界でいち早く「24時間営業」も取り入れ、吉野家の支持は、市場の外でさらに広まっていった。
「この間も松田瑞穂は、食材の改良、機材の改良などを常時重ね、吉野家をどんどん広めていきました。1975年にはアメリカ・コロラド州のデンバーに吉野家海外1号店をオープン。牛丼を『Beef Bowl』という名で販売しました」(吉野家・茶木さん)
急加速による弊害で、1980年に一時倒産
牛丼の味わい、松田瑞穂の経営戦略によって吉野家は破竹の勢いで国内外に広まっていったが、その勢いあまって1980年には倒産する事態にもなった。
「松田瑞穂はより効率良く安全に牛丼を提供するための様々な施策を行いました。急速に広げた店舗展開とも合わせて、資金繰りの悪化などが重なり、1980年に会社更生法を申請しました。
「特に象徴的だったのがフリーズドライです。今では時代が早すぎたように思えますが、倒産の数年前よりフリーズドライのタレを採用しました。しかし、お客さまから『吉野家は味が落ちたんじゃないか』と揶揄されるようになり、客離れが進んだことが倒産に至る大きな引き金でもありました」(吉野家・茶木さん)
ここで吉野家は「牛丼がうまくなくなったら、お客さまはすぐに離れてしまう」「お客さまあっての吉野家なのだ」と身をもって実感したという。
「吉野家を復活させた後、本当に勝算があるかどうか、念入りに議論したと聞いています。しかし、初心にかえり『お客さまあっての吉野家』という思いを強く持つことで、もう一度信頼を取り戻すことができるかもしれない……そんな思いで事業を再開することにしました。もちろん、牛丼の肉は当初のものに戻し、再スタートを切ることにしました」(吉野家・茶木さん)
2004年から約1年半、吉野家から牛丼が消えた
果たして再開した吉野家は当初の牛丼のおいしさを守り抜き、再び支持を集めることになったわけだが、ここまではまだ牛丼、牛皿、味噌汁、卵、お新香といったごく限られたメニュー。後に牛丼以外の様々なメニューをラインナップするようになるが、牛丼以外のメニューに着手したきっかけは、2003年に起きたある事件だったという。
「2003年、アメリカでBSEに感染した疑いのある牛が発見されたことによって、吉野家が使っている米国産牛肉の調達が事実上不可能になりました。
アメリカ以外の国から牛肉を輸入する策も考えられましたが、吉野家がこだわる穀物飼育の牛肉は数量的に輸入が難しく事実上不可能になったというわけです。
この影響で吉野家では2004年2月に、牛丼の販売をストップさせることになりました。その代わり、豚丼やカレーをメニューに加えることとなりました」(吉野家・茶木さん)
このときの、牛丼販売休止期間は2004年2月から2006年9月までの約2年半。この間「1日限定・牛丼復活」などもあったが、今になって思えば、この1年半で、吉野家の「牛丼以外のメニュー」の開発が熱心に行われ、今日の複数のラインナップにも繋がることになったというわけだ。
「豚丼やカレーだけでなく、角煮きのこ丼なども展開しました。こういった挑戦のおかげで今日のように60品目のメニューを展開することができたと言っても良いと思います。
以降、顧客ニーズの変化に応じて、2016年からは吉野家の店舗形態も多様性を加えることにしました。従来はカウンター型ですが、ソファ席を設けたクッキング&コンフォート型(カフェ型)の店舗を設けたりと、結果的に現在の多様化したニーズに応えるようにもなりました。
吉野家ではBSEなどの壁に当たったことを契機に様々なメニュー展開に至り、今では牛丼をはじめとする『日常食』というジャンルを打ち出すことができたと自負しています」(吉野家・茶木さん)
将来の吉野家は「牛丼とから揚げの店になりたい」
吉野家の言う「日常食」の最たるものはから揚げだとも言い、将来的には牛丼とぁら揚げを、2大主力商品として展開していきたいとも。
「今後も吉野家では多くのお客さまにとっての日常食を提供していきたいと考えていますが、具体的に言うと、将来の吉野家は『牛丼とから揚げの店になりたい』と考えています。
すでにから揚げを販売している店舗は全体の3分の2以上もありますが、それ以外の店舗の厨房には、から揚げを揚げるための設備を今後整えていきます。こういった店舗にも順次設備を追加させ、また、店頭でのオペレーションもしっかり確立・運用するようにし、牛丼とから揚げという、日本人にとっての日常食を多くのお客さまにご提供していきたいと考えています」(吉野家・茶木さん)
吉野家が牛丼と並ぶ主力商品にしたいというから揚げ、試しに食べてみたが、一時期から増えたから揚げ専門店のそれとは違い、濃いめの味付けの中に生姜の風味が優しくきいた、クセになる味わいだった。ご飯はもちろん、お酒のおつまみとしても良さそうだ。
「このから揚げは、吉野家ならではの味わいだと自負しています。ぜひ一度口にしていただきたいです。そのおいしさに気づいていただけると思います」(吉野家・茶木さん)
「毎日食べても飽きない味と価格」はこれからも
ここまで吉野家の124年のストーリーを足早に解説してもらったが、来たる創業125年目に先立ち、将来にかける思いで結んでもらった。
「創業当初、『食のプロ』の方々にご支持いただいた際の『味へのこだわり』はこれからも変わりません。その上で、『毎日食べても飽きない味と価格』を維持し、これまで以上に多くの方からのご支持をいただけると良いなと思っています。
牛丼やから揚げはもちろん、他のメニューにも注力していくつもりです。今後も吉野家をご愛顧いただければ幸いです」(吉野家・茶木さん)
<取材・文/松田義人>
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