「怖い人」と「やばい人」はどう違うのか?社会にもっと怖い人が必要であるワケ
社会をつくっている大人の責任は重大
それほどにこの社会をつくっている大人の責任は重大だと僕は思っている。「大切にすべきことを知っている大人が社会をつくること」で、しっかりと子どもが育つ。
くれぐれも言っておくが成績のいい子に育つという意味ではない。人間として大切な感性を備えた大人に成長してくれるということだ。最近は、だらしのない大人が多い。子どものいじめが問題だと言っている大人が平気で職場の立場の弱い人をいじめているじゃないか。
大人だっていじめてんじゃん。大人だってポイ捨てしてんじゃん。大人だって人の話、聞かねぇじゃん。世の中の犯罪、ほとんど大人がやってんじゃん。そんな大人に子どもを育てたり、教えたりする資格があるだろうか。僕はそういう卑怯な大人を壇上で発見したら、その場で出ていけと言う。そういう怖い大人でいたいと思っている。
「怖い人」と「やばい人」は違う
僕がめざしている、“怖い大人”とは、やたらに嚙みついたり、怒ったりする人のことではない。そういうのはやばい大人という。やばい大人なら世の中にたくさんいる。
「やばい」と「こわい」は全然違う。僕が言う“怖い人”とは、「この人にだけは嫌われたくない」と慕われる人物のことだ。ちょっと考えてみてほしい。人が叱られて一番つらいのはどういうときだろうか。
それは、札つきの不良とか屈強な体格の人にすごまれたり、脅されたときじゃないよね。自分が心から尊敬している人や大好きな人に叱られたときだよ。人はそういうときに一番、ヘコむよね。あなたにも、この人にだけは見限られたくないとか、この人の期待は裏切れないという人が一人や二人いるはずだ。そういう人を怒らせてしまうことを想像してみてほしい。それが僕のいう、怖い人なんだ。
愛することで、人は怖さも知る。大事な人が増えることで、この人には見限られたくないと思うことが増える。大事な人が誇ってくれる人でありたいと思う。それってすごくいいことじゃないか?