『青天を衝け』で話題になった“悲劇のヒロイン”。政略婚から手にした真実の愛とは
麻布の屋敷で歌道や雅楽を楽しむ
明治の世を迎えてからの和宮の余生は、それほど長いものではなかった。和宮は、江戸城明け渡しの二日前、慶応四年(一八六八)四月九日に城から出て、御三卿の清水屋敷に赴いた。そして翌年、上洛勧告に応じて懐かしき京都へ戻ったのである。京都では聖護院を居所とした。
ただ、明治天皇をはじめ皇族が東京(江戸)へ奠都してしまったこともあり、明治七年にふたたび江戸へ立ちかえり、東京麻布の閑静な屋敷で、歌道や雅楽などにいそしみながら静かに暮らした。また、徳川の人々とも交際し、あのライバルであった篤姫を自宅に招いたり、徳川家の跡継ぎになった徳川家達(いえさと)邸を訪ねたりしている。
なお、明治になってから和宮は日記(『静寛院宮御日記』)を書き始め、それが今も宮内庁書陵部に保管されている。明治十年八月に脚気を患い、箱根に湯治に出かけたが、そこで心臓発作を起こし、九月二日に三十二歳の生涯を閉じた。
遺骸は芝増上寺に葬られたが、生前の希望によって、墓は家茂の隣に置かれた。今でも増上寺には二人の墓が仲よく並んでいる。
<TEXT/歴史研究家 河合敦(@1ne15u)>