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『青天を衝け』で話題になった“悲劇のヒロイン”。政略婚から手にした真実の愛とは

コラム

大政奉還から王政復古の大号令

江戸 お城

 だが、それから二か月後、薩長ら倒幕派は明治天皇を奉じて朝廷でクーデターを起こして王政復古の大号令を出し、新政権を樹立した。そしてその夜、慶喜に対して辞官納地(内大臣の免職と領地の返上)を決定したのである。慶喜は、その決定を知ると、幕臣たちを引き連れ、静かに京都二条城から大坂城へ撤退し、事態を静観した。

 この間、土佐藩や福井藩など新政府穏健派の工作により、慶喜が新政府の盟主になることがほぼ確実になった。

 ところが、江戸で薩摩藩が浪人を雇って治安を乱したため、激怒した佐幕派の人々が三田の薩摩屋敷を焼き打ちした。これを知った大坂城の幕臣や佐幕派の人々が激昂、慶喜はこれを抑え切れなくなり、ついに京都への進軍を認めてしまった。

 こうして慶応四年正月、鳥羽・伏見の戦いが起こるが、戦いは旧幕府軍の敗北となり、慶喜は大坂城から江戸に逃げ帰ってくる。それを追って新政府軍が江戸へ向けて東下を開始する。そんな新政府軍の総大将(大総督)となったのが、和宮のかつての婚約者・有栖川宮熾仁親王だったのである

「自分は徳川と命運をともにする覚悟」

 和宮は複雑な心境だったにちがいない。しかしながらこのままいけば、江戸の町が新政府軍の砲撃にさらされて火の海と化し、徳川家の滅亡も必然的な状況だった。ここにおいて和宮は、天璋院篤姫と相談して朝廷に対して徳川家の存続を求める嘆願書を提出した。

 さらに和宮は、朝廷に次のような書状を出した。「慶喜が京都にいたとき、不慮の戦争が起こり、朝敵の汚名を被り、江戸に戻ってまいりました。朝廷は徳川を討伐するため軍を差し向けたと承り、当家の浮沈はこのときだと心を痛めております。どのような事態が起こっているのかわかりかねますが、慶喜の不届きさは十分承知しております。慶喜はどうなってもかまいません。

 ただ、何とぞ、徳川の家名が成り立つよう、お願いいたします。当家が汚名を被ることは、私自身にとっても残念なことです。私の命に代えてもお願いいたします。どうしても江戸城を攻めるというのであれば、自分は徳川と命運をともにする覚悟をしております」と伝えた。

「皇女和宮のいる江戸城を攻撃できるのか」、そういう脅しとも受け取れる決意を表明したのである。最終的に、新政府軍の西郷隆盛と徳川家の勝海舟の会談によって、江戸城攻撃は中止され、徳川家の存続も認められたので、江戸無血開城をすべてこの二人の功績だととらえてしまいがちだが、和宮の尽力も決して小さいものではなかったといえるだろう。

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