『青天を衝け』で話題になった“悲劇のヒロイン”。政略婚から手にした真実の愛とは
夫の死に号泣した和宮
九月六日、家茂の遺骸は江戸城に到着した。遺体を土葬にするか火葬にするかで、問い合わせがあり、和宮は土葬にすることを求めた。ただ、この頃より精神的なショックからか、夜になると、胸が苦しくなって息が詰まるようになり、お付きの女性たちがたいへん心配している。
城内表の御座之間上段に棺が安置された。拝礼に来た和宮は、家茂の側近から西陣の織物を手渡された。それは、大坂へ出立の間際、和宮がお土産にと夫にねだったものだった。家茂は病中にあってもそれを忘れていなかったのである。和宮は号泣したという。
「空蝉の 唐織もなにかせん 綾も錦もきみ(君)ありてこそ」
彼女がそのときに詠んだ歌である。朝廷では家茂歿後、和宮に対して帰京するように勧める者もあったが、彼女はこれを拒んでそのまま江戸城に残った。
将軍の助命嘆願書
慶応二年(一八六六)十二月、夫が死去したことで、和宮は剃髪して静寛院宮(せいかんいんのみや)と称することになった。ただ、彼女はそのまま江戸城西の丸に住むことになった。
この頃、和宮のもとに孝明天皇が疱瘡を患っているという知らせが届いたが、翌年正月に危篤となったという報が入り、翌日、すでに前年十二月二十五日に崩御していた旨の知らせが届いた。倒幕派の岩倉具視や大久保利通らに毒殺されたのではないかという説もある。天皇は攘夷主義者であったが、幕府あっての朝廷だと考えており、倒幕派にとっては邪魔な存在だったからだ。
一方、将軍になった慶喜にとって、天皇を失ったことは大きな痛手となった。結局、倒幕の動きが活発化したことで、慶喜は慶応三年十月、朝廷に政権を返上した。大政奉還である。