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コラム

長州藩征伐の最中での家茂の死

江戸 城

 翌慶応二年六月、ついに幕府の大軍が長州藩へ攻め込んだ。家茂は大坂城にいたが、戦況ははかばかしくなく、敗報が続々と入ってきた。

 そんな七月二十日、大坂城において家茂は急死する。征討の最中の死であったため、幕府にとってはたいへんゆゆしき事態だといえた。しかも、まもなく家茂の急死に関して奇妙な噂が流れはじめる。前将軍後見職で、禁裏御守衛総督の任にあった一橋慶喜が毒殺したというものだ。

 だが、家茂の死因は、脚気衝心(心不全)だったと侍医は診断している。脚気は贅沢病とも呼ばれた。裕福な人々に多発したからである。その原因は主食にあった。精米したご飯を主食にできる者は、この時代にあってはかなり裕福な層だった。白米は精米の過程で玄米に多く含まれるビタミンBが削そげ落ちてしまう。そのため、富裕層に脚気で死ぬ人が多く出たのである。

 すでに四月から家茂は胸痛に悩まされ、六月になると、なかなか食事がとれなくなった。これを聞いて和宮は非常に心配し、湯島の霊雲寺に祈祷を命じるとともに、侍医を蘭方医から漢方医に替えるように指示し、医師三名を江戸から船で大坂へ派遣した。

将軍の急死に毒殺説も流れたが…

 七月十九日に和宮のもとに家茂の状況報告書が届いた。今のところ便通もあり、落ち着いているということだったが、それから一週間後、あっけなく死去してしまう。

 おそらく家茂は、最後は脳症を発症し、急性心不全で絶命したのだろう。その症状は、毒を盛られたようにも見えなくもない。そこで毒殺説が流れ、家茂と氷解しがたい長年の確執があった慶喜の犯行が疑われたのだろう。

 死後、和宮のもとには「家茂危篤」という知らせが届き、二十五日に死去の報が伝わった。和宮はお百度詣でをやめ、自分の髪の毛を棺に納めるよう伝えた。

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