Aマッソはなぜ「差別ネタ」で炎上したか?取材時に感じたネタの危うさ
時代が変わり、差別への意識も変わった
1990年代以降、時代は大きく揺れ動いたように思う。日本ではバブル崩壊後に経済が悪化、現在でも格差は拡大している。そのなかでインターネットの普及でグローバル化が進み、さまざまな国民性や性的指向の違いが知られるようになるなど、形式的な多様性も広がっていった。
不安定な状況下で、それまで知らなかった情報が膨れ上がっていく。誰もが同じものを見て共有する時代が終わり、スマホで検索すれば “答えがある”と感じるようになった。当たり前だが、差別への意識にも影響を与える。
今注意しなければならないのは、無意識の差別だ。自分は分かっているつもりでも、気づかないうちに人を傷つけていることはある。それは芸人も同じで、今の時代に、初見の観客を前にして差別ネタを披露するのは適当な行為だったのか。
「観客そのものがメディア」である
私は、笑いを起こす者は、できる限り他人を傷つけずに楽しませることを念頭に置いて、ネタをつくるべきだと考えている。
これは差別ネタに限らないが、スマホがある時代にクローズドな場所はごく限られている。少し前に吉本興業・岡本昭彦社長の会見をネタにしたナイツの漫才がSNS上で拡散された経緯もある。もはや「観客そのものがメディア」であることを意識して、Aマッソはネタを選ぶ必要があったように思う。
一方で、Aマッソがどんなネタを披露するのか、一般的にはあまり知られていない現実もある。具体的にはネタを見てもらうよりほかないが、舞台上でのかけ合いも見事で、発想力も卓越している。
そんな芸人が“人種差別発言”で世間から注目を浴びることになり、私は本当に残念だった。なによりも、応援しているファンが一番ガッカリしたことだろう。自分たちの芸風をつらぬくならば、先に触れた状況を踏まえて復帰してほしいと願うばかりだ。
<TEXT/鈴木旭>