なぜ高校生は国家に抵抗したのか?「ベルリンの壁」以前の東ドイツで起きた実話
「ベルリンの壁」建設5年前の1956年、ソ連の影響下にあったハンガリーで民衆が政府に対して蜂起したが、ただちにソ連軍が介入し、蜂起は鎮圧された。
当時、ソ連の支配下にあった東ドイツでは、ある高校生グループがこの動乱に同情し、教師の反対を押し切って授業中に2分間の黙祷を捧げる。この行動が“社会主義国家への反革命行為”と、政府に見なされてしまい、高校生たちは、首謀者を名指しして大学へ進学するか、友達を守り労働者になるかの選択を迫られてしまう……自分の“未来”と“信念”や“友情”の間で彼らが選んだ道とは――。
この衝撃的な実話を『僕たちは希望という名の列車に乗った』(5月17日公開)として映画化したのは『アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男』(2016)で各国の映画賞を総ナメしたラース・クラウメ監督。今回は、来日した彼に1950年代の東ドイツや「ベルリンの壁」について話を聞いた。
国家が人々を支配しようとしていた時代を描いた
――本作と前作『アイヒマンを追え!』の両方とも、1950年代のドイツが舞台ですね。この時代に興味があるのはなぜでしょう?
ラース・クラウメ監督(以下、クラウメ監督):2006年にディートリッヒ・ガルスカの原作『沈黙する教室 1956年東ドイツー自由のために国境を越えた高校生たちの真実の物語』が出版されたときはドイツで大評判になったので、早速読みました。ですが、最初に読んだときは、これをどうやって映画化したらよいか見当がつかなかったんです。
でも、前作を完成した後にもう一度読んだら、前作と同じ時代に、社会のメインストリームに乗り切れないけれど、勇気ある人々を描いていることに興味をもちました。戦時中や戦争直後のドイツを映し出した物語はたくさんあるんですが、ドイツが新しい社会を構築しようとしている最中の1950年代を浮き彫りにした物語はあまりないんですよ。
――確かに、1950年代の“知られざるドイツ”を描いていますが、日本人の私でも非常に共感を持てる内容になっています。
クラウメ監督:政治的な部分だけに焦点をあてるのではなく、“団結”と“自由”をテーマに本作を作れば、すべての世代が共感できるんじゃないかなと思いました。本作の参考にした映画のひとつに、ピーター・ウィアー監督作『いまを生きる』(1989年)があります。これは1950年代のアメリカを描いていますが、この時代の国家は国民をひとつの方向にむかせるようにコントロールしていました。個人の意思を無視して、国家のイデオロギーを押し付けようとしていたんです。
1950年代のドイツは道徳的にも物質的にも完全に崩壊しており、戦後の数年間は、ただ生き延びようとしていた……。西ドイツは高度経済成長期に向かっていましたが、半面、東ドイツは国家のイデオロギーに向かっていました。その上、戦争犯罪やホロコーストによる“罪悪感”が、生きのびたいという願望や未来への希望と交じり合い、非常に複雑な感情が出来上がっていたんです。それは西側も東側のドイツも同じです。
国家から離れて“精神の自由度”を保てるか?
――映画の冒頭では、東ドイツの高校生が列車に乗って西ベルリンへ行き、アメリカの映画を観ます。1950年代に西側諸国のカウンターカルチャー(若者文化)が、東ドイツにも浸透していたということに驚きました。
クラウメ監督:ドイツが西と東に分かれた当初は、東ドイツ人は西ドイツにわりと自由に行き来することができたんですよ。ベルリンの壁が建設された後も、東ドイツ人は西側諸国の文化や出来事に非常に興味をもって、あらゆることを知ろうとしてたんです。国家がどれほど情報操作をしようとしても、若者は必ず抜け道を見つけ出します。どんな国家においても、“若さ”をコントロールすることは不可能なんじゃないかな(笑)。
――ということは、当時の東ドイツでは主に若者が西側に興味があったということですか? 彼らの両親や祖父母の世代は西側に対してどのような思いを抱いていたんでしょう?
クラウメ監督:西側への興味には年齢はあまり関係なかったんじゃないかな。パウルの叔父、エドガーはジャズを聴くのが好きでしたしね。国家のイデオロギーと離れて、どれだけ自由な精神をもっているか――。それが関係していたと思います。