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なぜ高校生は国家に抵抗したのか?「ベルリンの壁」以前の東ドイツで起きた実話

暮らし

イデオロギーを信じているわけじゃなかった

ラース・クラウメ監督

――主人公の東ドイツの高校生たちが自分たちの未来を犠牲にしてまで、国家の権威に抵抗した理由は?

クラウメ監督:ドイツ人はソ連兵を憎んでいたことが一番の理由です。当時ドイツには、ソ連、アメリカ、イギリス、フランスの兵士たちが駐屯していましたが、ソ連兵士はドイツ人たちとの交流はおろか、話すことも禁じられていたんです。アメリカ人、イギリス人、フランス人たちはドイツ市民と交流をして友情を結ぼうとしていました。なぜなら、そのほうが統治しやすいから。

 それに、戦争末期には2000万人ものソ連陸軍がドイツに来て、レイプなどの恐ろしい大罪を犯しました。もちろん、ロシア人の視点では、それは大戦中にドイツがソ連に進軍した際に引き起こした惨状に対する、“復讐”という意味もあった……。

 とにかく、ソ連による占領はドイツ人にとっては耐えられないものだったんです。ある意味、東ドイツ人にとってはスターリンの社会主義やユートピアニズムなんて、どうでもよかった。とにかく、ドイツから出て行ってほしい、出ていってくれるなら国家の形なんてどうでもよかった……多くの人がそう思っていたんです。

――東ドイツ人は必ずしも社会主義に傾倒していたわけではなかったんですね。

クラウメ監督:そうなんです。一方、西ドイツではこんなことが起こっていました。1945年にイギリス人が強制収容所を解放したとき、アルフレッド・ヒッチコックが『German Concentration Camps Factual Survey』というドキュメンタリー映画を作ろうとしました。

 彼は、強制収容所の記録や資料を集め、解放時の記録映像を編集して、西ドイツの市民に公開しようとしましたが、映画を観たイギリス政府が公開を許さなかったんです。1946年から1947年のドイツの冬は厳しく、多くのドイツ人は飢え死寸前の状態だった。そんなときにこんな映画を観せたら、ドイツ人は立ち直るどころか、集団自殺を図るかもしれない……。このヒッチコックのドキュメンタリーは完成されることなく、70年後に修復されて2014年のベルリン映画祭でプレミア上映されました。

 つまり、東と西では連合国による占領方法が全く違っていて、東ドイツ人は社会主義のイデオロギーによって厳しく支配されている反面、西ドイツ人は資本主義による経済政策によって統治されていたんです。

冷戦の象徴「ベルリンの壁」が国民に与えた影響

希望という名の列車

©Studiocanal GmbH Julia Terjung

――日本人のなかには東ドイツと西ドイツの国境に、万里の長城のような長い“ベルリンの壁”が建設されたと誤解している人も多いのですが、実際は、東ドイツ内に位置するベルリンのなかの西ベルリンをぐるっと囲んだのが「ベルリンの壁」ですよね。なぜ建設されたのでしょう? 人々の日常にどのような影響を与えたのですか?

クラウメ監督:ベルリンの壁が建設された理由は、東ベルリンから西ベルリンへの人口流出が後を絶たなかったからです。東ドイツは西ベルリンへの入り口を封鎖することによって、市民を東ドイツに閉じ込めて社会主義国家の奴隷にしたわけです。その結果、壁によって、西ベルリンは“陸の孤島”になってしまった……。西ベルリンと西ドイツを結ぶ交通網、食品、エネルギーの供給網がなくなった上に、ベルリン内に住む家族も引き裂かれました。だから、ドイツ人にとって、“ベルリンの壁”は“暴政の象徴”とも言えます。

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