ジャニー喜多川氏はこうしてスターを生んだ。田原俊彦研究家が語る秘話
7月9日、ジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長が解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血のため、亡くなった。87歳だった。
ジャニー氏のエピソードも豊富に綴られた『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)の著書があり、ライター・芸能研究家の岡野誠氏が、数々のアイドルや名曲を生み出した類まれなワードセンスを分析する(以下、岡野氏寄稿)。
ジャニー氏と『金八先生』オーディション
ジャニー氏は1962年のジャニーズ事務所創業以来、ジャニーズ、フォーリーブス、郷ひろみを売れっ子にしていった。
しかし、1975年春に郷が移籍して以降、事務所は苦境に陥った。1970年代後半、売上10万枚超のヒット曲は豊川誕の『星めぐり』だけ。ジャニー氏は新たなスターを輩出できずにいた。
1979年、2つの運命が引き寄せられる。
当時、TBSは金曜夜8時台の視聴率競争で苦戦していた。日本テレビの『太陽にほえろ!』が圧倒的な強さを見せていたのだ。同時間帯のプロデューサーを任されたTBSの柳井満氏(2016年逝去)はドラマ『3年B組金八先生』を考案する。
生徒役の選考が終わった頃、ジャニー氏は「今、TBSに10人ほどの子供を連れてきている」と柳井氏に連絡し、半ば強引にオーディションに持ち込んだ。
その中にいた田原俊彦、近藤真彦、野村義男の3人が生徒役に抜擢された。10月に始まった『金八先生』は回を追うごとに視聴率が上昇し、彼らの人気もうなぎ上りになっていった。
田原俊彦デビュー曲「哀愁でいと」誕生秘話
年が明けると、田原の歌手デビュー計画が着々と進んでいった。ジャニー氏はアメリカの人気アイドルであるレイフ・ギャレットの「NEW YORK CITY NIGHTS」のカバー曲に決め、訳詞を22歳の小林和子に任せた。そして1980年6月21日、「哀愁でいと」が発売され、田原はスターダムへと駆け上がっていく。
実は、小林は当初、全く違う歌詞を書いており、プロデューサーのジャニー氏から書き直しを命じられたことを拙著『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)の中で明かしている。新たに提出した歌詞のコンセプトにはオーケーが出たが、ジャニー氏は細部へのこだわりを見せた。小林はこう語っている。
〈サビの部分は「BYE BYE 哀愁デイズ」にしていたのですが、ジャニーさんが「哀愁でいと、にしない? カタカナじゃなくて平仮名がいいね。軽さが出るから」と言った。たしかに「デイズ」よりも「でいと」のほうが音として跳ねているし、エッジも効いている。すごい感性の持ち主ですよ。タイトルも「哀愁でいと」で確定しました〉(2018年6月発行『田原俊彦論』)
ジャニー氏は歌って踊る田原俊彦の特性を生かすため、“デイズ”よりも音として跳ねていて踊りやすい“でいと”を提案したのだ。