フリーランスに一番必要な能力は「痛覚のニブさ」だ――人気コラムニストの「仕事論」
8月にできたから社名は「オーガスト」
――出版業界の黄金期ですね。
小田嶋:自分たちで会社をやっていたから、「青年実業家」という肩書きは外部向けにアナウンスできたんです(笑)。やっていることはまったくフリーランスと同じでしたけど、会社をやっているという意識があって。オーガストっていう名前の会社で、「専務 小田嶋隆」っていう名刺を配っていました。
8月にできたから「オーガスト」だったのかな。事務所は電話を置かせてもらっていただけなんだけど、赤坂七丁目にあった。赤坂に事務所のある株式会社の専務だっていう、ある意味ニセの肩書きでやっていたんですよ。その会社は、88年ぐらいに閉めちゃいましたけど。
――そういえば出版業界って、事前にお金の話をしないこと結構多いですよね。
小田嶋:最近は事前にギャラの金額を言ってくれる編集者もいますけど、今でも半分ぐらいは言わないですよね。
まあ、事前にギャラの話があろうがなかろうが、実際に支払われる金額は大して変わりません。交渉して増えるものでもなければ、ケチをつけたから仕事を切られるというものでもない。要はお互いになんとなく気まずいからお金の話をしないってことです。この業界の慣習みたいなものなんでしょうね。
みるみる転落して30代半ばにはヤバイ酔っぱらいに
――フリーランスとして、ずっと稼げていたんですか?
小田嶋:一番稼げなかった時期というのは90年代で、当時はちょっと貧乏して借金生活に陥っていました。30代の頃で、当時は医者にアルコール依存症と診断されるまで、酒浸りの生活を送ってしまっていたんです。
そのころは20代に書いたものを書籍にしたりしてどうにか収入を得ていましたが、年収にしたら200万にも届いていなかったはずです。嫁さんがそこそこ稼いでいたんで、なんとか生活していました。あと、親から借金したり。
でも不思議なんですけど、その頃ですらあまり将来を悲観してはいませんでした。
――奥さんは大学の同級生でしたっけ?
小田嶋:同級生というか、学生時代のバンドのメンバーです。大学時代は知り合いだったけど学部も違って、社会人になってから結婚するみたいな話になりました。
その時はまだ“専務”を名乗っていた時代でしたから(笑)。30歳で結婚しましたが、結婚直前の時点では、自分の名前で本も出していましたから、見かけ上はわりと将来有望な新進気鋭のライターだったわけです。まあ、そこからみるみる転落して、30代半ばにはヤバイ酔っぱらいになるんですけど(笑)。