「日本は一度ぶっ壊れたほうがいい」ダースレイダー×映画監督・原一男
癒し系映画が多すぎる!
原:でも、最近なんだか、見ている間だけ心地良い、癒されるっていう映画が増えている気がします。そういう映画には人が詰めかけますが、私たちが作るような、観客に「お前、頑張れよ!」って叱咤激励するような映画には人がなかなか集まりませんもんね。ツラいと言えばツラいです。
ダース:僕は“シャワー”と表現してます。これは社会学者の宮台真司さんに教えてもらった概念ですが、そういう癒し系の映画はシャワーで洗い流せるんですよね。でも、原さんの映画は傷跡が残っちゃいますから。シャワーで洗い流そうとしても「何かここに刺さってんだよなぁ」みたいな。でも今は「怖い」「面白い」と思ったとしても家に帰ったら忘れるようなものを、多くの人が求めている。トゲが刺さって痛いのは嫌なんですよね。でもトゲがいっぱい刺さっている人間からこそ話を聞く価値があるわけで、シャワー浴びるたびにまっさらになるような人の話は全然面白くないんですよ。
シャワーで洗い流せる作品ばかりだと、垢もフケも残らないから、まったく同じような人間が量産されていくことにもなる。ここに傷があって、コブがあって、汚れがあって……っていうのがその人が通ってきた道であり、生きてきた証なわけで、それが何もない人間の空っぽな言葉なんか信用できないでしょう。人を生まれ変わらせたり、消えない傷跡を残すということが、あらゆるアート作品の役割だと思います。
国も統治の方法として、ひとつも傷が付かないで生きて行けるような制度、社会を作ろうとしています。日本のガードレールの多さもそれを表していますよね。だから、せめてアート作品に触れたときくらい傷を付けないと、耐性がなくなっちゃいます。
原:Twitterなんかでも「れいわ新選組の映画なんか、見る気が起きない」という言葉を投げかけてくる人がいるんですよ。そういう人とはどんなふうにコミュニケーションを取ればいいのかと、日々悩みますね。そう言う人には、もう『ゆきゆきて、神軍』の奥崎健三さんみたいにテロリストとして接するしかないんじゃないかとう気すらしてきます。
ダース:奥崎さんみたいに家に押しかけて「お前の家で上映会やってやる!」みたいな(笑)。
日本の政治デモに人が集まらない理由
原:どうして、浅いレベルでしか物事を考えない国民がこんなにも多いんでしょうか。韓国では100万人を超える人がデモに参加して、朴槿恵政権を倒した。香港だってあれだけの若者たちが民主化を求めて結集した。一方で、日本は数十万人を集めたデモは60年代に一度あって、数年前にもSEALDsが安保法制への講義で国会前に人を集めたことがありましたが、いっても数万人じゃないですか。この数の差っていったい何なんだろう。
ダース:江戸時代の“お上”の意識がいまだに日本国民の中に強くあるんだと思います。国民主権なんだから本当は僕らが上に立っているはずなのに、そう思えていない。「僕らが政治家を使ってやってる」「僕らは忙しいから政治家に喋らせとく」って感覚でいる人はほとんどいませんよね。
あと、横目で他の人が何をやっているか気にする人が多すぎる。韓国や香港の百万人規模のデモって、他人がどうとかじゃなく、一人ひとりがおかしいと思って立ち上がったから、結果的にその規模になっているんだと思います。日本の場合、SEALDsみたいに誰かが号令をかけないと集まりません。だから「なんであんな奴に従わなきゃいけないんだ」って思って行かない、みたいなことも出てくる。その程度なんですよね。
原:2018年に公開した『ニッポン国VS泉南石綿村』を作る中で、アスベストの被害を受けた大阪・泉南地域を取材をしていて思ったことがあります。一部の人が結集して国家賠償訴訟を起こすとき、それに対して冷たい反応を示した人がかなり多かったそうなんです。自分の身内がアスベストで死んだにもかかわらず「お上に対して裁判を起こすなんてとんでもない」と。まだまだ、そういう意識が立派に生きているんですよね。