俳優・坂東工が語る”バチェラー”出演後の心境「僕らも変わらないといけない」
イーストウッド映画でハリウッドデビュー
――ということは、お芝居を学ぶために渡米したわけではないんですね。
坂東:当時は、小説家になりたいと思っていました。それで、最初の留学先であるニューヨークで命を削るように踊る日本人ダンサーの女の子と出会い、付き合うことになったので、一緒に旅をしながら小説でも書こうかなと考えていたんですが、サンディエゴに着いたときにいきなり彼女から日本に帰国したいと言われたんです。
でも、自分は旅に出ると決めていたので、1年半くらい1人で放浪しながら狩猟とか採掘をして過ごしていました。ところがあるとき、彼女に電話をしてみたら病気で亡くなったと。
そこから1週間くらい動けなくなって絶望していたときに目に入ったのが、掲示板にあった演劇学校生募集のお知らせで、体力を回復させるためにやってみようと思って始めたのが最初でした。
――演劇学校に入ってから1日14時間くらい勉強する生活を1年続けて、英語が母国語ではない人では初めてトップのクラスに入ったとか。それから2006年にはクリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』でハリウッドデビューを果しますが、経緯を教えてください。
坂東:ニューヨーク中のアジア人俳優に声がかかったので、僕もオーディションを受けました。でも、実はあまりイーストウッド監督の作品を観たことがなかったので、彼のすごさも映画の規模もまったくわかってなかったんですよね(笑)。
しかも、僕はアメリカで芝居を始めたこともあって、日本語での芝居はそのときが初めて。にもかかわらず、4次オーディションまで進んで、役をもらったと聞いたときは飛び上がるほど喜びました。ただ、あとで聞いたら1次オーディションの時点で300人から2人になっていて、最初の段階で受かっていたみたいですが……。
生活費を稼ぐために11歳から新聞配達
――なぜご自分が選ばれたのか、客観的に考えたことはありますか?
坂東:当時はオーディションに行くと、必ず僕が受かるという状態だったので、実はほかの役者さんと比べるとゼロが2つ違うくらい稼いでたんです。顔がいいわけでも、体つきがいいわけでもないのに、なんでだろうと自分で振り返って思ったのは、僕が一番ハングリーなんじゃないかなということでした。
――かなり早くから一人暮らしをしていたそうですが、そういったことがハングリー精神を養っていったのでしょうか?
坂東:事情があって10歳から一人暮らしをしていましたが、僕にとっては全部が日常だったので、乗り越えてきたという感覚はないですね。ただ、親が銀行に振り込んでくれるお金を小学生では下ろすことができなくて、生活費を稼ぐために11歳のときから知り合いに頼んで新聞配達をしたり、八百屋で働いたり、レストランの皿洗いをしたりしていました。いまだったら補導されてたかもしれないですね(笑)。