東大卒ITベンチャー取締役が、ベルリン銀熊賞『偶然と想像』に携わった背景
同級生に誘われて起業
――その後、会社を辞めて起業します。
高田:最初に入った会社は2年で退職し、映研の先輩が創業役員の1人だったベンチャー企業で働いていました。ところが、その会社は役員同士の方向性の違いから、役員の1人がまた別の会社を作ることになったんです。
そういうこともあって、社員としてではなく会社と距離を置いて、雇用関係ではない形で仕事をしたいと思ってフリーランスのプログラマーとなりました。そして、その後高校の同級生で代表の原田(将)に誘われてNEOPAに参画しました。社会人になって5~6年目のことです。
僕を含む役員3人と現在も社員として一緒に仕事をしている若干名で、西麻布の極細雑居ビルの1室に籠もっていましたね。当時は、スマートフォンはまだないので、eコマースの決済システムやガラケー用のアプリを作っていました。
「自分は映画は作れない」という自覚
――その後、現在も経営者を務めるNEOPAで濱口監督の映画製作をサポートします。社会人となった後、映画製作への情熱が湧きだしたのでしょうか。
高田:観客として映画は好きでしたが、「職業として映画を作りたい」という思いはなかったですね。というのも、濱口監督が東京藝術大学の大学院時代に撮った一般公開されていない映画『ソラリス』を見た時に「これは才能のある人が作ったものだ」と思ったんです。真似してできるものではないと。
彼は映研時代から、脚本も監督も「人に見せる」ということを前提に作っていました。学生時代は目の前に自由があるので、撮りたいものを盛りだくさんで映画に入れてしまいがちです。でも、濱口監督は当時から自分の作ったものに対する客観的な目線がありました。
映画を作りたい気持ちはありましたが、何をやっても不器用な自分がやるものではないと。そもそも才能が追い付かないと思いました。
――そして、いよいよ濱口監督から演技経験のない4人の女性を俳優として起用する『ハッピーアワー』の資金面でのサポートの相談があります。どのような心境だったのでしょうか。
高田:濱口監督とは時折会ってご飯を食べていましたが、「ついに来たか」と。濱口監督のファンの一人として次の映画は「どうやって何を作るんだろう?」と思っていたんです。なので、単純に自分が協力することでそれが実現できるのであれば、素敵なことであるという感覚でした。
年はさほど離れていませんが大学の先輩後輩の1年は大きいです。後輩に頼られて嬉しいという思いもありました。それが2012年の暮れ、30代半ばのことでした。