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宮澤喜一にすら小馬鹿にされた…“戦後最も偉大な総理大臣”の不遇すぎる前半生

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どこか「残念臭」の漂う池田の前半生

 昭和十九(一九四四)年七月、無能と専横を極めた東條英機内閣は退陣し、小磯国昭内閣が成立します。そして、翌昭和二十年二月四日からヤルタ会談が行われ、十九日にはアメリカ軍が硫黄島に上陸します。

 そんな国内外の情勢とは関係なく同月二十八日、出世は頭打ちと思われ、本人もそう思っていた池田勇人が、なんと主税局長となりました。京都帝大出身者初の主税局長であり、新聞に「仰天人事」と記事にされるほどでした

 とはいえ、もちろん同期の山際正道は総務局長、植木庚子郎は主計局長なので、池田が彼らを抜いたわけではありませんし、山際、植木、池田という序列は変わっていませんが、お話にならないほどの遅れは取り戻したと言っていいでしょう。

 昭和二十年と言えば、戦争も終盤です。大蔵省は空襲を避けて都心を離れ、局ごとに建物を分散。主税局は雑司が谷の自由学園明日館に移り、池田はそこで終戦を迎えました。

やっとチャンスが巡ってきたと思ったら敗戦

原爆ドーム

原爆ドーム(広島県)

 終戦間近の池田は前尾繁三郎と「もし戦争に負けたら、官吏などやめてしまい、地下に潜って抵抗運動をやらなくてはならない」などと語っていたそうです。しかし、実際に天皇の終戦の詔勅が発せられると、皇居前に行き「官吏の責務を果し得なかったこと」を天皇におわび申し上げました(『随筆池田勇人』一四五、一四七頁)。

 税金を集めて戦費を捻出すれば戦争に勝てると信じていた池田ですが、戦争が終わって冷静に考えると、まったくそんなことはありませんでした。

 挫折、挫折、挫折……と挫折五連敗人生のあと、やっとチャンスが巡ってきたと思ったら、敗戦です。主税局長にまでなったのに、どこか残念臭が漂う池田の前半生でした。

 このときの池田勇人は四十五歳。この頃は人生六十年時代ですから半生どころか、もう七割は過ぎています。これまでのところ決して順風満帆のエリート人生ではありませんでした。しかし、必死に生きてきた池田の人生は、無駄ではありませんでした。池田にとっても、日本にとっても

第1回⇒就職先で“Fラン”扱い…「戦後最も偉大な総理大臣」の挫折だらけの青年期
第2回⇒ノンキャリア官僚だった「戦後最も偉大な総理大臣」が過ごした“ドサ回りの日々”
第3回⇒財務官僚を今も苦しめる「馬場財政」の悪夢。戦時を生きた“偉大な総理”の実像

<TEXT/憲政史研究者 倉山満>

憲政史研究者。著書にシリーズ累計35万部を突破した『嘘だらけの日独近現代史』『嘘だらけの池田勇人』(扶桑社新書)などがある

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