財務官僚を今も苦しめる「馬場財政」の悪夢。戦時を生きた“偉大な総理”の実像
池田勇人は「純粋まっすぐな職人」
彼の徴税ぶりは有名で、根津嘉一郎の遺産相続のときや、講談社の野間清治にたいするとり方はすさまじいものがあったらしい。池田はのちによくそのことを思い出した。「俺はあのころ、税金さえとれば、国のためになると思っていたんだ」と言ったことがある。(伊藤昌哉『池田勇人とその時代』朝日文庫、一九八五年、七六頁。初版は、『池田勇人その生と死』至誠堂、一九六六年)
後年の池田はこのように若気の至りと猛省しています。しかし、それまでの池田の虐げられていた環境や病などの逆境で出世が遅れていたことなどから考えると、大所高所から物事が考えられなかったとしてもやむを得ないでしょう。いわば「専門バカ」「純粋まっすぐな職人」です。コロナ対策で政府アドバイザーをしている医者が、感染症を減らせば他のすべてはどうなってもいいという思考回路に陥るのと一緒です。
ただ、本省に戻されたとはいえ、池田はまだ冷遇されています。後年になってもボヤいています。「重要会議がおこなわれる。ぜんぜん俺を呼んでくれないんだ。俺ひとりだけがポツネンととりのこされる。こんちくしょうと思った」(同、七五頁)。
逆にそれだからこそ池田は、「役所でどんぶりめしの夜食を食べながら、税務の下積み官吏と一緒に仕事をする。親しくなる。もちろん鬼のように仕事を言いつけるけれども、連中の苦しみはわかるようになるし、下僚のやっている仕事をすっかり把握することができた」のでした(同)。
長女「直子」誕生と賢夫人の満枝さん
昭和十一年七月、長女が生まれます。直子と名付けました。今風に言えば、「元カノの名前を娘につけた」でしょうか。この話をOLさんにすると、「池田勇人を嫌いになる率100%」です。
ただ、先妻は看病疲れで亡くなってしまったわけですから、池田としては生まれ変わりのように思ったのかもしれません。ここは、それを受け容れた後妻の満枝さんを称えるべきでしょう。なお男子はなく、池田の選挙地盤は婿養子で大蔵官僚の行彦が継ぎました。行彦が婿入りしたのは勇人の死後ですから、これはすべて満枝さんの責任ですが……。
池田は医者も匙を投げるような不治の病から回復するなどの体験を経て、朝起きると東の方に向かって柏手を打つことを日課にするなど信心深いところがありました。特定の宗教に帰依するというのではありませんが、末広がりの八の字を好み、内閣の組閣や改造には常に「八」の日を選ぶなど験を担いだりしています(沢木耕太郎『危機の宰相』魁星出版、二〇〇六年、七五、二三〇頁)。