財務官僚を今も苦しめる「馬場財政」の悪夢。戦時を生きた“偉大な総理”の実像
生涯の友・下村治との出会い
さて、池田が復職する年(昭和九年)の四月には、後に政治家池田の経済ブレーンとなる下村治が大蔵省に入省しています。東京帝大経済学部卒で、池田より十一歳年下です。下村が学内雑誌にマルクス批判論文を書いたところ、高名な経済学者の大内兵衛が「下村というのはどこの大学教授だ」と言ったという説があります。
これに対して下村の評伝を書いている上久保敏は、経済学部教授の大内であれば学生が編集した雑誌の執筆者の所属ぐらい調べられただろうから実話ではないだろうとしていますが、大学教授が書いたものと言われても疑われない内容だと認めています(上久保敏『下村治:「日本経済学」の実践者(評伝・日本の経済思想)』日本経済評論社、二〇〇八年、七頁)。
下村が学生時代から異能の人であったことは間違いないでしょう。後の高度経済成長は、この下村の理論をもとに池田が実現していくことになります。
「圧力釜」と恐れられた池田の取り立て
十二月、大蔵省に復職した池田は、大阪の玉造税務署長になりました。やっぱり、地方赴任です。ここで池田は、税金を取ることにかけては強気で、玉造税務署長時代には圧力釜という渾名がつくほどでした(林修三『法制局長官生活の思い出』財政経済弘報社、一九六六年、二四〇頁)。
そして池田は、このころ和歌山税務署長の前尾繁三郎と知り合います。前尾は池田の四年後輩で、肋膜を患い、一度退職して復職するという池田と似た経歴の持ち主です。そんな共通の背景もあって、生涯の友となり、前尾はのちに池田政権を支える幹事長となります。
また、玉造税務署長となってまもなく池田は再婚します。相手は難病の勇人を親身に看病してくれた満枝です。先妻の直子夫人とは子がありませんでしたが、この満枝夫人とは三人の娘に恵まれることとなります。池田が玉造税務署長に就いた半年後には熊本に異動し、税務監督局直税部長となります。まだまだ地方をドサ回りです。