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美川憲一、“飾らない言葉”のブログが話題に「シンプルに生きるとラクになる」

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役者から歌手の道へ「絶対に売れてやろう」

美川憲一

──歌手になろうと思ったのは、いつからですか?

美川:高校を中退して、芸能学校(東宝芸能学校)に入ったのが昭和37年(1962)頃。そこで2年勉強して、そのあと映画の世界に行こうと思って「大映ニューフェイス」に。

 役者になるのが憧れだったんですよね。でも大映に入りたてのころに「歌手にならない? 絶対に売れると思う」って言われて。歌うことなんて考えられなかったんだけど、古賀政男先生のご自宅で歌の勉強を始めました。

 育ての両親には学校だけは出てって言われていたんだけど、「あなたたちのためよ」って私は思ったのよね。早く独立して、2人の母の面倒を見なきゃいけないって……背負っているものが大きかったから。芸能学校も、新橋の喫茶店でボーイをしたり、夏は郵便局の仕分けみたいなのもやったり、自分がアルバイトしたお金で通って。

──その時、「歌で絶対に売れる」と言われなければ、今の人生も変わっていたかもしれませんね。

美川:全然変わってたわね。「歌やらない?」って言われたとき、とっさに一攫千金を狙おうって(笑)。私ね、勘で生きてるのよ、今までずうっと。勘がすごく強くて。

「絶対に売れてやろう」って。それで母を楽にできるならって思ってたんだけど、清純派路線のデビュー曲が全然売れなくて、新橋のレコード屋さんに(母が)買いに行っても置いてない。でも、私は「そのうち売れるから」って言っていて。母も「そうだわ。あんたはしぶといから大丈夫よ」って(笑)。だから、「しぶとい」って言葉はあたしの体のなかにしみついてるの。

 その後、『柳ケ瀬ブルース』が出て、そうしたらもう次から次へと出す曲すべてヒットするようになりましたからね。ヒット曲があるとね、落ち目になっても食いつないでこれたかなっていうのはあるわよね。

──売れたときに、2人のお母さんは何と言っていましたか?

美川:2人とも「やっぱりね」って(笑)。

実は抵抗があった“おネエキャラ”

美川憲一

ブログの文字入力はマネージャーさんと勉強しながら行っている

──歌手以外でもご活躍の幅が広がりました。

美川:「タンスにゴン」のCMのセリフ「もっと端っこ歩きなさいよ~」から、“おネエキャラ”みたいなキャラクターが出来あがっちゃって。そういうふうに言われるのってすごく抵抗を感じるほうだったんだけど、CMが売れたときに、逆に「これを商売にしてやろう」と思ったんです。私、したたかなのよ~(笑)。

──コロッケさんや最近では松尾駿さん(チョコレートプラネット)が美川さんのものまねをされて、それもすっかり公認キャラになりました。

美川:コロッケがものまねをやってね。ゲストで初めてだったのよ、“ご本人登場”は(1989年正月)。

 その後、赤井英和さんの『どついたるねん』(1989)のプロデューサーが、この番組を見て声をかけてくださったの。ゲイバーのママ役で、ちょっとだったんだけどね、何でもいいやこの際って。(ちょうどスランプ後の仕事がない時期で)忘れ去られた時間を取り返すのは大変だから、そんな綺麗事言わずにもう、何でもやってやろうと(笑)。

 そうしたら、「タンスにゴン」のCMにも繋がったのよ。さらにワイドショーのお騒がせタレントみたいになって。その頃からね、(おネエ)キャラクターができていったのは。

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