S・ジョブズが「生涯の師」と仰いだ日本人僧侶の“破天荒な”正体
ジョブズが「生涯の師」と仰いだ理由
――ジョブズの発言や思想、あるいはアップルの精神に「禅の心がある」とよく言われます。柳田さん自身は、今回の取材を通じどう考えましたか。
柳田:結論として、私は「ジョブズやアップル製品に禅の心はある」と強く思います。ジョブズは、「人間とは何か」「人類はどうあるべきか」を深く探求した、現代のレオナルド・ダ・ヴィンチともいえる天才肌の人物です。彼は精神世界を求めて、トラウマセラピーや断食、シャーマニズム、さらにマリファナやLSDなど、あらゆる方法を試みました。そんな彼に、もっともフィットしたのが禅でした。
――なぜ、ジョブズは弘文を「生涯の師」と仰いだのでしょうか?
柳田:いろいろな理由があるでしょうが、最も大きかったのは、弘文の慈悲心だったと思います。弘文は名家の出身で、京大を出て、永平寺でも特別僧堂生というエリート・コースを歩みました。ただ、アメリカという異文化のなかでつまずき苦悩したことで、それまで抱えていたものを捨てて、アメリカの人々とともに苦しみ、彼らの救済に尽くす道を選んだ。あまりに純粋に仏道をまっとうしたため、家族を悲しませたり、お酒に溺れたりもしましたが慈悲に満ちていました。
ジョブズも生まれてすぐに養子に出され、大学に進学するも中退し、ヒッピーになり、インドを放浪したりと人生に迷っていました。その後、アップルを起業し、若くして大成功をおさめたものの、一度は失脚し、自分が創った会社から追放されてしまうなど完ぺきな人ではなかった。
仏教に、「泥中の蓮(でいちゅうのはちす)」という言葉があります。蓮の花は、泥の池でこそ綺麗で美しい花を咲かせるという意味です。泥にまみれながら衆生を救おうとした弘文の姿に、やはり泥池に生きたジョブズは共鳴したのではないでしょうか。二人の交流をたどると、時に、「共鳴」などというなまやさしい表現を超えて、ジョブズが弘文に「すがった」時期もあり、二人の魂の深い繋がりを感じます。
人間の存在なんて小石や塵
――コロナ禍で不安になる人が多い現在ですが、弘文の教えを今に活かすなら?
柳田:ジョブズの名言に、スタンフォード大学卒業式でのスピーチ、「私は毎朝、鏡に映る自分に問いかける。もし、今日が人生最後の日だとしても、今からやろうとすることを私はしたいのだろうか」があります。このコロナ禍で、いっそう心に響く言葉ですよね。
一方の弘文は、「禅とは掃き清めること」と語っています。広い宇宙の中で、人間の存在なんて小石や塵のようなもの。ところが、人間の自我は大きくて、とくに若いうちは自分が世界のすべてだと思いがちです。でも、その考えこそが、周囲との関係を窮屈にし、自分自身をがんじがらめにしてしまう。そうではなく、自らの執着を「掃き清め」、空っぽにせよ! そうすれば、物事が入る余地ができて、まわりと調和できるようになるということです。