『ジャンプ』元編集長が語る、熱狂するコンテンツ作りの条件
――とはいえ、なかなか成果は出なかったのでは?
後藤:初めは雑誌自体が後発ということもあって、応募数は30~50通程度で、中にはラクガキみたいな出来の作品もありましたよ。
『ジャンプ』が新人デビューの登竜門として定着したのは、秋本治さんや江口寿史さんが出てきた頃。創刊から8年ほどでようやくハッキリとした成果が出てきました。それ以前は、ライバル誌と比べて大御所はいないし無名の漫画家ばかり。
若さと熱気は感じられるけど、作品のレベルはそれほど高くない。漫画家志望からしたら、敷居が低い雑誌として見られていたかも知れません。「ここでなら自分でもひと旗揚げられる」という野心のある若い才能を結集できたということができたと言えると思います。
――今年『ジャンプ』は創刊50周年ということですけど、最近の連載作品に対してどのように見ていますか?
後藤:僕が『ジャンプ』から離れてから「ONE PIECE」という漫画が人気を得ましたよね。これはいろんな才能を持つ仲間を集めながら、冒険を続ける話だと思うんですよ。その仲間集めの過程で泣かせるエピソードを挟むところが、昔の作品にも通じる王道のプロットだと思います。
気になったのはバトルシーンも含めて“ひとコマ”の描き方ですね。例えば「ドラゴンボール」だと、悟空とベジータが戦う場合、あくまで2人のやりとりや関係性のみを描く、非常にシンプルなものになっています。
ところが「ONE PIECE」の場合だと、戦いの場面でその他大勢がひとコマの中に登場してそれぞれ自分勝手なことをしゃべります。情報量が多くなる分、内容はつかみづらくなりますよね。こういう描き方は僕の時代では邪道でした(笑)。世代的な違いを感じるところです。
――今だと雑誌や単行本に限らず、電子書籍や漫画アプリなどいろいろな読まれ方をされています。これからの漫画編集者に求められる能力は?
後藤: 編集の現場から離れて長いこと経つので、将来のことをはっきりと申し上げることはできません。ただ現状を見ても雑誌が衰退することは間違いないかと。一方で、漫画そのものや漫画を描く才能はなくならないし、編集者という存在もなくならないと思います。
発表の場が紙媒体からネットに変わったとしても、作品の最初の読み手となる編集者を必要としている漫画家はいる。才能を見つけ出す目利きの能力や、手を取り合って作品を世に送り出す役割は必要です。
今ではネットを駆使して個人が自由に作品を発表できますけど、いまだにネット配信だと海賊版が出てきたり、著作権侵害のリスクは増大するでしょう。そのあたりも踏まえて、出版社の今後の課題はいかにして雑誌に代わる新しいメディアを作り出すかにあるかと思います。
お金を集める方法(プロデュース)も編集者の仕事に
――著書の中では「幽☆遊☆白書」(冨樫義博/1990~1994年連載)を分水嶺として、雑誌そのものを売る時代からメディアミックスの時代に変わったとおっしゃっていました。
後藤:メディアミックスを念頭に置いた戦略は、車田正美さんの「聖闘士星矢」にもすでにありました。
ここ最近は、漫画作品をコンテンツといい、編集者がプロデューサーを名乗るようになりましたよね。要するにお金を集める方法がプロデュースで、それが編集者の仕事にも含まれるようになりました。別にこのことに対して批判するつもりはありません。
水は高きから低きに流れるように、漫画が莫大な利益を生むとなれば、そこに多くの人が集まるのは当然です。でも雑誌が売れない上に漫画もツマラナイ魅力に乏しいものになったら、アニメにしよう、ミュージカルにしようなどという人も現れないと思うんですよ。
メディアミックスという流れはあるけれど、漫画家と編集者がまっとうな創作活動を行わない限りは何も成立しないと思います。
――最後に20代の読者に向けてひとつの仕事を続ける秘訣を教えていただけたらと。
後藤:仕事を心から楽しむということに尽きますね。人間は働かなきゃ生きていけないわけだから、働くことを楽しいものに変える努力が重要。そういうふうに考えてくださいとしかいえない(笑)。
今はパワハラとかセクハラが問題になるけど、長時間労働がダメとか、男女平等じゃないとダメだと言われているのは、世の中がそれだけ成熟してきたからだと思います。そういうところは法制化すべきだけど、働く喜びは法制化できないですよね。
僕が就職活動中にある人から言われたのは「就職に苦労していたとしても、そう簡単に意に適わない変な会社には入るべきではない。心から自分が就きたい仕事や入りたい会社を見つける」ということ。
そんな単純な話ではないと思うけど、それが正解なんじゃないですかね。
【後藤広喜】
1945年、山形県生まれ。東京教育大学(現筑波大学)卒。1970年に集英社に入社。『週刊少年ジャンプ』編集部へ配属。1986年から1993年まで同誌編集長を務め、生え抜き編集長第一号となった。集英社取締役、創美社(現・集英社クリエイティブ)代表取締役などを歴任