『ジャンプ』元編集長が語る、熱狂するコンテンツ作りの条件
1970年に集英社に入社後、約33年間『週刊少年ジャンプ』(以下『ジャンプ』)の編集に携わり、4代目編集長(1986~1993)も務めた後藤広喜氏。
今年3月には『ジャンプ』誕生秘話から、発行部数653万部を達成する黄金時代までの歴史を綴った著書『「少年ジャンプ」黄金のキセキ』(集英社)を発売。
出版不況と呼ばれて久しい昨今、海賊版サイトの問題や、漫画編集者の在り方など、コンテンツ作りの未来について後藤氏に聞きました。
「集英社が何を出しているのか知らなかった」
――後藤さんが集英社に入社した頃、出版業界や漫画を取り巻く状況を教えてください。
後藤広喜(以下、後藤):高度経済成長期を経て、日本の社会が豊かになった。それを裏付けるように漫画に限らず、現存するさまざまな雑誌が出揃ったのがこの時期です。
『週刊新潮』や『週刊文春』はすでにありました。『週刊プレイボーイ』や『non-no』だとか、そういう若者向けのトレンド雑誌が出てきましたね。少年漫画誌に関していえば、月刊誌から週刊誌が主流になっていた頃です。
――出版業界に興味を持ったきっかけは?
後藤:集英社に入社する昭和45年は全共闘運動とか学生運動が華々しいときでした。それもあり僕は大学に7年間も通っていました(笑)。周囲の大人からは奇異な目で見られていて、あいつも学生運動をやってたとか、左翼なんじゃないかとか。
それもあって就職には相当苦労しました。出版社を志望したのは、特別な資格も専門知識もいらない。漠然としたセンスのようなもので勝負する人間でも受け入れてもらえるという期待がありました。
――集英社に入社して漫画編集者になった経緯は?
後藤:実は面接を受ける前は集英社が何を出しているのか知らなかったんですよ(笑)。当時の集英社は『明星』とか『週刊プレイボーイ』、『りぼん』、『マーガレット』などの雑誌が主流。
初代社長の陶山巌さんは書店などに電話する時は「『明星』を出している集英社です」って電話するという(笑)。漫画の出版社というより雑誌の出版社という感じでした。
本音をいえば、学生の頃に読んでいたような文芸書の編集をやりたかったんですよ。でもやっと就職ができたわけだし、この際、配属先はどこでもいいかな、と。まさか少年漫画誌をやるとは思いませんでしたね。
「とにかく新人発掘に必死だった」若手時代
――駆け出しの編集者時代のエピソードを聞かせてください。
後藤:『ジャンプ』編集部に大卒新入社員が配属されるのは、僕と同期のもう一人が初めてでした。編集部の上司はひと回り以上も歳が違うし、なかなか一人前として認めてもらえなかったですね。
――「認めてもらう」というのは?
後藤:一人前の漫画編集者の条件は、とにかく自分で新人漫画家を発掘してヒット作を飛ばすこと。先輩から引き継いだ作品に人気があっても認めてもらえませんでした。駆け出しの頃はとにかく新人発掘に必死でしたね。
――雑誌で新人漫画家の作品を募ったのは『ジャンプ』が最初ですよね。
後藤:『ジャンプ』は少年漫画誌として後発ということもあり、有名漫画家に連載してもらうのは難しかったんですよ。編集部の方針にあった「専属制度」というのも人気漫画家に執筆を依頼する上では足かせになりました。
どうしても新人に頼らないとならないというのもあって、創刊時から新人の漫画作品を募集する取り組みを行ってきました。それが新人漫画賞で、のちに「手塚・赤塚2大漫画賞」や「月例新人漫画賞」に繋がっていきます。