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『東リべ』のような学校環境…55歳・学校法人理事長が明かす「波乱の人生」

ビジネス

 目まぐるしく変化する社会に適応しながら、常に挑戦と成長を続けていくことは、企業にとっても個人の人にとっても簡単なことではない。株式会社健生は、1994年に仙台市青葉区宮町で1号店となる接骨院からスタートして、現在は健康・福祉分野でデイサービスなどの介護事業や障害福祉サービス事業、フィットネス&リラクゼーション事業などを多角的に展開する。

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画像はイメージです

 一見、お堅い企業に見えるのだが、実は創業者で代表取締役社長兼CEOの中尾充氏は異色の経歴を持っている。想像の斜め上をいく波瀾万丈の半生と、「変えていく力」をスローガンに掲げる同社の取り組みについて聞いた。

まさに『東京卍リベンジャーズ』

 現在55歳の中尾氏は『ビー・バップ・ハイスクール』などがドンピシャの世代。和歌山県屈指のヤンキー率の高さを誇っていた地元で、荒れた若者が非常に多かった時代に多感な時期を過ごした。

「人口数万人ほどの小さい街でしたが、中学の頃は暴走族が大小4チームあって、恥ずかしながら一時期所属していたこともあります。僕は参加してないですけど、2つ隣の町の暴走族チームが、100人対100人でケンカが起きたこともあります。まさに『東京卍リベンジャーズ』みたいな感じですよね」(中尾氏、以下同じ)

酷使がたたってスポーツの道を諦める

中尾充

高校1年生の中尾氏。一見コワモテに見えるが、スポーツに打ち込んでいたという

「我ながらすごい環境で育った」と話す中尾氏だが、スポーツに打ち込んだ一面も。水泳のスポーツ推薦で高校に入学し、水球の国体選抜になったこともあるという

「近所の新聞屋で新聞配達のバイトを始めた小4の頃から、身体能力が異常に上がりました。とりわけ貧しい実家でもないんですが、決まったお小遣いをくれないという方針の家庭で。毎日40〜50分くらい走って配っていたので、小5で中学生以上のマラソン大会に飛び入り参加し、優勝して地元の新聞に取り上げられたこともありました」

 しかし、体の酷使がたたって高校2年で椎間板ヘルニアに。選手生命を絶たれたことが、現在携わる業界との初めての接点となった。

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