“親ガチャ”にハズレた?大河ドラマ『鎌倉殿の13人』主人公・北条義時、波乱の人生
わずか3代で滅亡したのは北条氏の陰謀?
その証拠といえるかどうか、頼朝を祖とする源氏将軍家はわずか3代で断絶する。初代・源頼朝は、1199年正月13日に体調不良による落馬で急死したと伝えられるが、北条氏による暗殺説も根強くささやかれている。2代将軍には、頼家が18歳で将軍に就くが、幕府の内紛のあおりを受けて修善寺に幽閉された挙句、暗殺されてしまった(1204年)。
さらに3代将軍・実朝(頼朝次男)も、1219年に鶴岡八幡宮で頼家の次男である僧・公暁に斬り殺される。これにより源氏の嫡流は途絶えるのだが、いずれにも北条氏の影がチラついている。真偽はともかく、以降、北条氏が執権として鎌倉幕府の権力を掌握することになるのだ。なお鎌倉時代における執権とは、政務をつかさどる最高権力者のこと。
時政が有力御家人13人による合議制を採り入れたのは、2代将軍・頼家の就任直後。若き将軍を支えるためとも頼家の専制を抑えるためともいわれるが、確かなのは、決して一枚岩ではなかったということ。
北条氏を軸に主導権争いが繰り広げられ、しばしば内紛が勃発した。時政は、1200年に頼家の教育係だった梶原景時を時政が弾劾追討すると、さらに1203年には時政追放の動きを見せた比企能員の一族を謀殺し、滅亡させてしまった。
ついにブチ切れ、父・時政を追放!
だが、何事もやりすぎは禁物だ。3代・実朝のとき、時政は後妻の娘婿・平賀朝雅を将軍に擁立しようと企て、その一環として、勢力を拡大しつつあった有力御家人の畠山重忠を滅ぼした。このときは父の命に従った義時だが、時政による実朝失脚計画を知るに至り、さすがにこれはやりすぎだと思ったのか時政の追放に動きだす。実子・実朝の処遇に怒り心頭だった姉・政子も義時に与し、時政はついに鎌倉から追放されてしまった。
義時も腹をくくったのだろう。じつは時政の後継には、後妻・牧の方の子・政典が有力視されていたが、16歳で急死。これはもはや自分が北条氏を受け継ぐしかないと、2代・執権となる。義時は別称(あるいは戒名との説も)を得宗(とくそう)といい、以後、北条氏嫡流を得宗と呼ぶことになる。
もちろん、義時の心境は推測の域を出ない。稀代の脚本家・三谷幸喜が、義時の心の動きをどう捉え、そしてどう描くのか。もしかしたら、親や上司との関係に悩む現代人が共感、あるいは参考になるシーンも多々あるかもしれない。
<TEXT/加賀新一郎>