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“親ガチャ”にハズレた?大河ドラマ『鎌倉殿の13人』主人公・北条義時、波乱の人生

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嫡男ではなかったが兄の死で政争の渦中へ

北条時政

北条時政(『慶應頃錦絵帖』より)

 いきさつは別稿に譲るとして、朝廷に弓を引く(「承久の乱」)などということは、比叡山を焼き討ちした織田信長ですらやらなかった暴挙だ。いくら売られたケンカとはいえ、自ら采配を振るい朝廷と軍事衝突することになろうとは、少なくとも少年期には考えもしなかっただろう。

 そもそも、義時は北条氏の嫡男ではなかった。1163年に生まれた義時には、兄・宗時(生年不詳)がいた。通常なら、片岡愛之助が演じる宗時が嫡男として時政の跡を継ぐはずだったが、大泉洋演じる源頼朝が平家打倒をぶち上げて挙兵した石橋山合戦(1180年)で討死してしまった。

 もちろん、義時も平家打倒戦に加わっていたが、当時は名を江間四郎(えましろう)と称し、あくまで北条氏の傍流として合戦に参加していたにすぎない。ちなみに、頼朝の妻・北条政子(小池栄子)は、6つ上の姉にあたる。

地方の小豪族に過ぎなかった時政の野望

 北条氏はもともと桓武平氏の庶流で、いわば平家方の武士だった。だからこそ伊豆に流された頼朝の監視役に任じられたのである。流人とはいえ、温暖な伊豆でのんびりと暮らしていた頼朝が突如、平家打倒を掲げて挙兵したのは、もちろん源氏方諸武士の突き上げが大きいが、時政(と政子)は止めるどころか、挙兵を全面的にバックアップした。平氏系だった時政がなぜ源氏の棟梁を支援したのか?

 じつは時政の前半生はよくわかっていない。伊豆に土着した平氏でも、時政は地頭の嫡流ではなかったという説もある。周辺の豪族に比べても所有する土地は少なく、いわば地方の小豪族に過ぎなかった。

 しかし、源氏の棟梁を補佐してもし平氏本宗家を打ち破ることになれば、地方どころか全国の武士の頂点に立つことも夢ではない。そんな野望が、時政にはあったに違いない。もはや平氏でも源氏もなく北条氏を武士の事実上の棟梁に押し上げる、という思いがあったのではないか

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