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ヴェネチア銀獅子賞の黒沢清監督「哀川翔さんが救いだった」不遇時代を語る

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求人広告を見ていたかつての不遇時代

黒沢清

――ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞後に「37年間監督をやってきて、紆余曲折な監督人生だった」とコメントされていました。一番のピンチはいつでしたか?

黒沢:1980年代に商業映画を撮り始めましたが、そのとき、ディレクターズ・カンパニーといういろんな監督たちが集まっている会社に所属していたんです。ところが、‘92年に倒産しまして。それ以降、映画が全く撮れなくなって、テレビドラマやCMとかを撮って細々と生きていました。本当につましい生活でしたね。

 映画を全然撮れていなかったし、バブル期だったこともあって、お金を持っている人たちから見ると、最低の生活を送っていたかもしれません(笑)。でも正直、その時期に自分自身では危機とも思っていませんでした。

――「映画の仕事をやめよう」とはならなかったのでしょうか。

黒沢:ならなかったです。ただ、求人広告は見ていました。聞くと、そのころ似たような状況にあった監督はみんなそうだったらしいんですが、求人広告を見て、「まだ年齢的にOKだ」、あるいは「これならやれるな」「これだったら映画を撮ることと両立できるかな」とか考えてました(笑)。実際には幸いにも一度も別の仕事をすることなく、食いつなげたんですけどね。

Vシネ、哀川翔さんが救いだった

スパイの妻

――国際的にも黒沢監督の名前を知らしめた『CURE』(’97)の前の時代ということですね。

黒沢:そうです。それよりもっと前です。そのあとに、また僕が映画を撮り始めたのが、『CURE』のちょっと前で、Vシネ(オリジナルビデオ)でした。僕の窮地を見かねたのか、「Vシネマを撮らないか」と声をかけていただいたんです。映画とは少し違いますが、内容的には映画と一緒です。そこで「なんでもやります!」と言ってやらせていただきまして、哀川翔さんと出会ったのが大きかった。

――哀川翔さんですか?

黒沢:僕の現場を気に入ってくれて、哀川さんのVシネを10本撮りました。哀川さんのVシネというのは必ず売れるんです。有難かったですね。その流れで、ほぼ同じ会社、同じスタッフで『CURE』を撮ったりできた。Vシネ、哀川さんが救いでした。

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