工作でおなじみ「ヤマト糊」の原料はタピオカのでんぷんって知ってた?【身近な製品に学ぶビジネスの教え】
身近な商品や製品に潜む意外な事実から、ビジネスや人生に役立つ情報をお届けする〈bizSPA!〉の新しい連載「身近な製品に学ぶビジネスの教え」。
今回は、幼いころに誰もが使った経験のある(はずの)ヤマト株式会社(東京都中央区)の〈ヤマト糊〉の意外なトリビア、およびロングセラー商品に隠された歴史やビジネスの教えを、ヤマト株式会社の業務企画本部・業務開発部・チャネル開発室兼社長室に所属する宿谷尚代さんに聞いた。
120年以上の歴史を誇るロングセラー商品
「ヤマト糊」と言われて、どのような商品か思い浮かぶだろうか。
ピンとこなくても、日本で育った人であれば、カラフルなプラスチック製のボトルやチューブに入った白濁色の糊(のり)を工作の時間に使った思い出があるはずだ。
幼稚園や保育所、小学校の工作の時間、指やへらで糊しろに伸ばし張り付けたあの白濁色の糊だ。
手が汚れるため、いつしか人は、大人になると使わなくなるが、ヤマト社の宿谷尚代さんによると、現在の保育所や幼稚園など、指先を使わせたい知育の現場、および趣味の現場でも変わらず重宝されているそう。
しかし、あの糊を、子ども向けの糊とばかにしてはいけない。120年以上の歴史を誇るロングセラー商品で、ビジネスパーソンの学びになる歴史が山のように詰まっているからだ。
その歴史は、明治時代にまでさかのぼる。ヤマト社のルーツとして、木内弥吉さんという薪炭商が、炭を袋詰めする際に、糊が腐って不便を感じたところからロングセラー商品の物語が始まる。
純粋な米のでんぷんに防腐剤と香料を加え、現在のヤマト糊の原型であるでんぷん糊を生み出した木内弥吉さんは、自作の糊を「ヤマト糊」と命名し、製造・販売に力を入れるべく1899年(明治32年)にヤマト糊本舗をスタートさせる。
その後、跡継ぎ問題があった同社を、会社の裏手で繊維業を営んでいた長谷甚商店(初代・長谷川甚之助さん)が昭和時代の初期に買収する。
この長谷甚商店の2代目・長谷川武雄さんが1948年(昭和23年)、ヤマト糊工業株式会社に同社を改組。弱冠20歳の時に経営を引き継いだ3代目の長谷川澄雄さんが、社長就任から19年後の1970年(昭和45年)に現在の社名に変更した。
その間、ヤマト糊は、改良改善を加えながら、糊業界での大きなシェアを確実にしていった。
詳細は後に語るが、利用者の声を通じて時代の変化をとらえた液状糊〈アラビックヤマト〉を1975年(昭和50年)に同社は発売し、さらなる成功を収める。
事務用液状糊の国内シェア約7割を占める同商品は、あまりにも生活に入り込んでいる。どこの会社の商品なのか意識しないで使っている人も多いかもしれない。しかし、あの琥珀(こはく)色の糊もヤマト社を代表する製品だ。
行き詰まったら変わればいい、変化すれば道は開ける
何気なく使っているヤマト糊やアラビックヤマトの歴史を同社の宿谷尚代さんに聞くと、ビジネスパーソンの学びにもなるエピソードの豊富さに気付く。
まず、ヤマト糊の主成分が現在は、タピオカのでんぷんだとご存じだろうか。
第3次タピオカブームが数年前に来た記憶も新しいが、キャッサバという根菜類の根っこのでんぷんを乾燥させ、粉末にしたものがタピオカ粉。そのタピオカ粉にお湯を加えて混ぜ、カットして丸めてゆでると例の食べ物(タピオカボール)が完成する。
ヤマト糊も一緒で、あくまでも、糊の原料としてのでんぷんで食用とは異なるが、タピオカでんぷんからできている。
もともと、開発者である木内弥吉さんの従来のヤマト糊づくりでは米を使っていた。米のでんぷんの分子を加熱と水で緩め、でんぷん粒子に水を吸わせ、膨らませて粘り気を持たせ(糊状化)、防腐剤・香料を加えて製品とする。
しかし、第二次世界大戦で、米殻配給統制が敷かれ、でんぷん糊の原料である米そのものが手に入らなくなる。
彼岸花やダリアの球根など、食料以外のでんぷんで代用してみたものの、糊化(こか)させるための加熱温度がそれぞれに異なるため、米と同じ方法ではうまくいかない。
糊の研究者も当時は存在しなかったため、東京工業大学の高分子化学の研究室で学んでいた学生3人の学費を会社が支払い、卒業後の就職も約束した上で研究を進めてもらって、でんぷんを加熱せずに化学処理をして糊状化(こじょうか)する「冷糊(れいこ)法」を開発した。
冷糊法では、化学薬品を使ってでんぷんの分子を部分的に緩める。化学処理されたでんぷんは冷水に触れると水を吸って、膨らんで粘り気を持つ(糊状化する)。
戦後、小麦、ばれいしょなどの原料が使われた時期もあったそうだが、宿谷さんいわく、1983年(昭和58年)から、キャッサバという植物の芋から精製したタピオカでんぷんを原料とし、この冷糊法で〈ヤマト糊〉をつくり続けている。
1950年(昭和25年)に同社は、この製法で特許を取得した。見方を変えると、ピンチを乗り越えようと工夫を重ねた末に、従来にも増して優れた製法を確立したのだ。
冷糊法の開発について、ヤマト社3代目・長谷川澄雄さんは、著書『革新の連続が暖簾をつくるー受け継がれる「一代一起業」の精神ー』(学研プラス)の中で次のような言葉を使って振り返っている。
“窮すれば即ち変じ、変ずれば即ち通ずーー”
(長谷川澄雄著『革新の連続が暖簾をつくるー受け継がれる「一代一起業」の精神ー』より引用)
行き詰まったら変わればいい、変化すれば道は開けるという言葉は、多くのビジネスパーソンにも大切なメッセージではないだろうか。
「人間臭いマーケティングを追求せよ」
液状糊のアラビックヤマトの誕生秘話にも学びが多い。1970年代、女性の高学歴化・社会進出に伴い、事務職での就職者が増えた。
働く女性、あるいはマニュキュアなど手元のおしゃれを楽しむ女性の中には、ヤマト糊のようなでんぷん糊による指先の汚れに強い抵抗感を示す人も少なくなかったという。
そのニーズに気付いたヤマト社は、アフリカのスーダンなどで生産されるアラビアゴムの樹液を主成分にしたアラビア糊に着目する。
アラビア糊はすでに、明治時代に輸入され、大正時代に国産化が進んでいた。円すい形のびんを逆さにすれば、液体糊が先端から染み出してくる。使用のたびに手先が汚れない利便性に着目したのだ。
ただ、当時のアラビア糊の容器は、先端にある塗り口の海綿に糊が詰まって固まってしまう不便さがあった。そこで、ヤマト社は研究を開始し、台所のざるからヒントを得た形状のプラスチックに異素材のスポンジを2枚重ねる特殊スポンジキャップを開発した。
さらに、従来のアラビア糊以上に均一で、なめらかな塗り味を実現するために、天然のアラビアゴムの樹液ではなく、昭和30年ごろから出てきた合成樹脂を原材料とした合成糊を使い、アラビアゴムの樹液と似たような色合い(琥珀色)にして、握りやすい円すい形のプラスチック容器に入れ製品化した。
販売戦略としては、サンプル商品をつくり、全国の販売店、学校、役所などに無料配布し、その利便性を訴えたという。結果として、爆発的なヒットとなり、その後も、顧客の要望に合わせて容器の形状にバリエーションを持たせるなどして、現在の国内トップシェアを実現した。
この開発背景についても、ヤマト社3代目・長谷川澄雄さんは、上述の著書の中で次のように語っている。
“人間臭いマーケティングを追求せよ!”
(長谷川澄雄著『革新の連続が暖簾をつくるー受け継がれる「一代一起業」の精神ー』より引用)
「人間臭いマーケティング」とは、例えば営業担当者であれば、御用聞きで終わるのではなく、営業先との人間らしいお付き合いを通じて、何気ない会話の中からビジネスのヒントを得なさいという意味だ。
そうした姿勢が、「指先を汚したくない」という女性のささやかな希望に気付くきっかけとなり、専門的な商品開発、積極的なPR活動を経て、大ヒット商品の誕生につながったのだ。
この記事をきっかけに、オフィスにあるアラビックヤマトを、文房具屋に置いてあるアラビックヤマトやヤマト糊をあらためて手に取ってみてはどうだろうか。
読者の皆さんが生まれる前から繰り返されてきた創意工夫と改良の積み重ねの歴史が肌で伝わってきて、何らかの刺激を受け取れるに違いない。
[取材・文・写真/坂本正敬]
[取材協力]
ヤマト株式会社
[参考]
長谷川澄雄著『革新の連続が暖簾をつくるー受け継がれる「一代一起業」の精神ー』(学研プラス)