同じ名前の社長が8代続く大企業が日本に。不便でも経営者が襲名を続けるわけ
「襲名」と言われると、どんな業界を思い浮かべるだろうか。歌舞伎や能、落語といった伝統芸能を真っ先に思い浮かべる人が多いはずだ。あるいは、世界史の教科書に出てくるフェリペ3世といった世界の偉人だろうか。
しかし襲名は、日本のビジネス界にも存在する。しかも、日本経済を支える老舗の大企業の経営者が襲名しているケースだ。
その会社は、鈴与株式会社(静岡市)と言い、聞けば近年、航空業界でも大きな話題を生んだ物流業界の大手企業だという。
そこで今回は、航空ジャーナリストの北島幸司さんが、鈴与株式会社(静岡市)の現会長・8代目鈴木与平さんにインタビューし、襲名の背景やメリットデメリット、さらには大きな話題となったエアライン経営について聞いた(以下、北島幸司さんの寄稿)
「鈴木与平」の名前を世襲し現会長で8代目
企業の平均業歴は34.1年というデータがある。東京商工リサーチが調べた結果だ。全国各地にある老舗企業の社歴は当然、平均よりはるかに長い。
その老舗企業の中には長い社歴の中で、歴代TOPの名前を襲名している企業もあるとご存じだろうか。鈴与株式会社(静岡市)である。
鈴与の本社は静岡にある。物流を中心とした多角経営の企業で1801年(享和1年)に創業した。220年を超える社歴を持つ会社だ。
代表者の名前を略した社名の鈴与は社歴が長いだけではない。代々、経営者が「鈴木与平」の名前を襲名し、現会長で8代目になる。
歴史ある企業のTOPがなぜ襲名をしているのか。また、その襲名を、どのようにご本人は感じているのか。
「正直、襲名からは逃げ回っていました。代々の慣例は知っていましたが還暦にもなって、親から名付けてもらった名前を変えたくはありません。気分が悪いじゃないですか(笑)
しかし、創業200周年を迎える時に担ぎ上げられちゃって。覚悟を決めて受けたわけですよ。名前を汚さぬようになどと高尚なことは考えていません」(鈴木与平さん)
意外な意見である。フランクなコメントから察する限りデメリットの方が襲名には多いのだろうか。
「そりゃ、圧倒的にデメリットが多いですよ。会社なわけだから、登記簿の代表者名を変更しなくてはなりません。
物流関係で言えば、監督官庁の国土交通省への申請、グループの学校法人は文部科学省への申請、当時は製薬業も営んでいたので厚生労働省への申請業務が大変でした。
それでも、メリットもあります。友人が増えるんですよ。名前が変わると、その前後で友人関係も変わります。
私の本名は、鈴木道弘なので『みっちゃん』と昔の友人が呼んでくれる一方で『与平さん』と呼んでくれる新しい友人も増えました。
行きにくい場所に行くには昔の名前で行ったり。新しい名前が重宝することもありますよ(笑)」(鈴木与平さん)
空運に目を向けた時に静岡は不利な立地
静岡を中心に東海では、知らない人など居ないくらい鈴与は大きな企業だ。しかし、全国の若い読者のために、鈴与の会社の歴史をひも解いてみる。
徳川時代になり、東海道が整備されていく中で、清水のまちが海陸両面でにぎわいを見せていく。その際、徳川家康は、回船問屋42軒に特許を与えた。
この問屋の1人である港屋平右衛門から初代与平が問屋株を譲り受け、回船問屋・播磨屋与平を1801年(享和1年)に創業した。
その初代から数えて8代目の鈴木与平さんは、1941年(昭和16年)生まれの83歳。慶応義塾大学、および東京大学を卒業し、日本郵船に就職する。その後、1977年(昭和52年)に鈴与の社長に就任した。
慶應義塾体育会航空部ではグライダーの操縦にはまり、会社を継いでからも航空趣味を継続している。本人いわく「乗るのも、操縦するのも、いじるのも好き」という。
鈴与は、静岡に根差した会社だ。海運では、日本のTOP10に入る清水港があり、陸運では、東海道の要衝にある。物流企業にとって有利な立地だ。
しかし、8代目の鈴木与平さんが幼少のころから興味のあった空の世界でビジネスを考えようとすると静岡は、決していい場所ではなくなる。
航空輸送は、空港の点を航空路の線で結ぶ業態だ。線で結ばれる点がそれぞれ、大都市にあれば理想的だ。少なくとも一方の点が大規模空港であれば利用者は存在する。
そう考えると自然に、地方の空港にとっては東京(羽田)便が鍵になってくる。航空業界には、羽田空港と結ばれれば放っておいても黒字化するというジンクスすらある。
ところが、その東京と静岡は170キロほどしか離れていない。航空路としては距離が近過ぎる立地だった。
東京ばかりが便利になるだけでは地方は空洞化する
それでも静岡県が、国内市場の弱さ(羽田とつなげられない立地)を補うために海外に目を向け、富士山静岡空港の開港に2009年(平成21年)に漕ぎつけると、その空港を拠点に同年、鈴与傘下の〈フジドリームエアラインズ(FDA)〉を創業した。
8代目鈴木与平さんは、東京一極集中に疑問を抱き、東京ばかりが便利になるだけでは地方は空洞化する、文化の発信は地方でもできると考え、地方と地方を次々と結んだ。
しかし、創業から10年後に、新型コロナウイルス感染症のパンデミックがやってきた。幹線でさえ利用者が減ったコロナ禍では、地方間の輸送のダメージも極めて大きかった。拠点となる富士山静岡空港の国際定期路線は全て消滅した。
そこで、コロナ禍が収まった2023年(令和5年)11月に8代目鈴木与平さんは、自社よりも規模が6倍ほど大きなスカイマークの筆頭株主になると決めた。
文化の発信を地方から行い、地方と地方を直接結んで、日本を活性化させる環境をあらためて整えるためだ。
日本エアシステムをJAL(日本航空)が吸収し、日本の航空業界がANA(全日本空輸)・JAL(日本航空)の2強に入った2004年(平成16年)から20年が経過した。
国内第3勢力の新たなエアラインとして大きくなるための戦略はあるのか。
「エアラインの生死は機材が決めると思っています。スカイマークは搭乗率もいいので、機材の大型化が望ましいと思います。
機材の乗り換えも1つのチャンスです。国際線や貨物業務よりもまずは国内線の地固めが必要ではないでしょうか」(鈴木与平さん)
220年を超えて日本の産業界に貢献してきた鈴与の力が航空業界で大きく開花する時が来た。
大空港に就航しなければもうけられないという考えを、東京(羽田)とつながらない富士山静岡空港で覆せれば地方空港に光が当たる。
今年、83歳になる鈴木与平さんの肩にかかる荷は重いが、会社経営と同じくらい重い名前を襲名してきた8代目鈴木与平さんであれば、航空業界にも名前を残す仕事をしてくれるはずだ。
[取材・文・写真/北島幸司]