司馬遼太郎の名作をコミカライズした作者に聞いた、仕事への向き合いかた
就活で「やりたいこと」に気づいた
――長いあいだ趣味だった漫画を、仕事にしようと思ったきっかけは?
奏:大学4年生の最後くらいです。なにか大きなきっかけがあったというよりは、就活中にだんだんモヤモヤしはじめた感じでした。志望動機をエントリーシートに書いたり、面接で話したりしていると「ほんまにこの仕事やりたいんかな」と悩むようになって。
いったん就活をやめて、原稿用紙に漫画を描いて賞に送ってみようと思ったんです。「これで何にも引っかからなかったら、漫画家はやめたほうがいいわ」と応募したのが『週刊少年マガジン』の月励賞でした。結局、賞は獲れなかったんですけど、担当さんがついたんです。それがはじまりでしたね。「もうちょっと本気でやってみよう」と本格的に漫画を描き始めました。
――賞を獲らなくても、担当編集さんがつくことがあるんですね。
奏:これから成長するかもしれないという感じで担当さんがつくことは、けっこうあると思います。ぼくは結局なかなか芽が出なかったので、自分でもいろんなところに持ち込みをしていました。そしたら『週刊ヤングマガジン』でも担当さんがついて、その方にいろいろ指摘してもらったりして、ようやく賞を獲ることができました。
「もうあきらめたほうがいいんかな」
――賞を獲ってからは、順調に漫画のお仕事が?
奏:いえ、やっぱりなかなか芽が出ず(笑)。何年か「連載持つぞ!」と頑張っていたんですけど、27~28歳くらいのときに成長スピードが止まってしまった感じがありました。「もうあきらめたほうがいいんかな」と思っていたときに『首を斬らねば分かるまい』(週刊ヤングマガジン)という作品で作画として連載のお仕事をいただいて、ようやくデビューできました。
――オファーがくるということは、漫画をつくる作業のなかでも、特に作画が得意だったんですか?
奏:全然そんなことはなかったですね。1作目の連載のときは、デッサン力がぜんぜん追いついていませんでした。編集長にもめっちゃダメ出しされて、何回も、何回も描き直しまくっていました。とにかく担当編集さんにチェックしてもらって、デッサンがおかしいところは修正する、という作業を序盤は繰り返していましたね。
そのときから、足りていない部分に気付いたら、その都度向き合うという姿勢が身についたのかもしれません。今後の仕事でもそうやっていくべきだなと思っています。