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「知らない大人に育てられた幼少期」を24歳テレビマンが描くワケ

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だめ連の人たちは面白がって育児に参加してくれた

――お母さんの中に思想的なものがあったと言うよりも、子育てに困っていて、助けてくれる人を探したらだめ連の人たちが集まってきたということですか?

加納:そうですね。たまたまだめ連の人たちは暇だったみたいだし、面白がって育児に参加してくれたようで、沈没家族と相性が良かったようです。それで次第に共同保育の輪が広がっていった。

 共同保育の試みをスタートしてから1年半後、アパートが手狭になったこともあり、東中野にある3階建ての戸建「沈没ハウス」に移り住みました。そこで、母を中心とした当時20歳そこそこの若者たちと共同生活を送るようになったんです。

――どのくらいの人が共同保育に関わっていたんでしょうか。

加納:実際に僕の育児に関わっていたというのであれば50人くらいだと思います。でも当時は本当にいろいろな大人が沈没ハウスにいました。

 仕事終わりに僕に癒されにくる人もいたし、部屋のすみでずっと漫画を描いている人もいました。常にお酒を飲んでいるような、普通の小さい子供だったら出会えないような大人もいましたね。僕を抱っこしたことがあるというレベルまで広げたら、本当に数えきれないくらいの人たちが僕を育てることに関わっていたと思います。

沈没家族との生活が僕に与えた影響

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――沈没家族で育った経験というのは、現在の監督にどのような影響を与えているんでしょうか。

加納:僕にとっては非常にいい経験だったと思っています。やっぱり学校や血のつながった家族という関係以外に大人がいるというのは楽しかったですね。あと、自分で言うのもなんですが、他人に対しての懐はとても深くなったんじゃないかと。

 昼間から大人がお酒を飲んでいる環境で育ったこともそうだし、映画にでてくるだめ連の設立者の一人である「ペペさん」(※)なんて、普通に生きていたらまず見ることがない衝撃的な暮らしをしている人で。そんな人たちに僕は育てられていた。

 そうした影響から「この人は無理だ、受け入れられない」って思うことはまずありません。もちろん嫌いな人はいますけどね(笑)。

(※)ペペ長谷川氏……早稲田大学時代の友人とともに、1992年にだめ連を創設した。共同保育参加当時は週3日程度のアルバイト、8万円程度の月収で暮らしていた。

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