江戸時代の遊郭「吉原」の由来とは?巣鴨、蒲田…地名と植物の深い関係
戦国時代に活躍した「武将」と言われると、常に死と隣り合わせで、戦さと権力闘争に明け暮れているイメージだ。しかし、植物学者、稲垣栄洋氏は「戦国武将たちが植物を愛していた」と語る。戦国武将にとって植物を知ることは実利的な意味もあったのだ。
今回は、武将や武士たちと植物との知られざる関係に迫った、稲垣氏の著書『徳川家の家紋はなぜ三つ葉葵なのか』より「家康が江戸を選んだ理由」にかかわるパートを一部抜粋、再構成してお届けする(以下、同書より抜粋)。
家康が江戸を選んだ理由
豊臣秀吉は小田原征伐で北条氏を倒し、天下を統一すると、徳川家康の領国5カ国、「三河・遠江・駿河・甲斐・信濃(現在の愛知県、静岡県、山梨県、長野県)」を取り上げ、家康を当時、寒村であった江戸に転封してしまう。
家康を脅威に感じた秀吉による、いわば左遷である。これは家康にとって相当、屈辱的なことであったろう。しかし、不思議なことに、関ヶ原の戦いに勝利して天下人となった家康は、転封された屈辱の地である江戸に幕府を開く。
天下を目指す戦国武将は、誰もが京への上洛を企図していた。豊臣秀吉が築いた大坂もある。自らが統治していた駿河の駿府(現在の静岡市)や、甲斐の甲府という選択もあった。それなのに、どうして家康はわざわざ江戸に幕府を開いたのだろうか。
交通の要衝だったことも江戸を選んだ理由
理由の一つとして、京都の朝廷の影響を受けないため、というものがある。もしかすると、京都から遠く離れた地に武士の政府を開いた鎌倉幕府を意識したのかもしれない。
ほかにも理由が考えられる。天下を統一したとはいえ、西国には徳川家に反逆しそうな大大名が控えていた。小田原城攻めを経験した家康にとっては、小田原城でさえも西国の攻撃を受ける場所である。そのため、西国からより離れた江戸は防衛上優れていた、という考えである。
また、水運に優れており、交通の要衝だったことも家康が江戸を選んだ理由であるとされている。信長や秀吉が、水運を発達させることで大坂を発展させたことを見習ったのかもしれない。