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20歳で“天才を引退”する「ぼくりり」。若者の才能をムダにほめる大人の罪

コラム

 しかし、ぼくりりは、残念ながらそこまでのアーティストではありません。活動期間もわずか3年ですし、誰もが知っているヒット曲もない。なのに、どうして無駄にドラマチックな身の引き方を選んでしまったのか。

ぼくのりりっく

「MUSICA」2月号(1/15売)

 そもそも、ネームバリューと釣り合わないおおげさな発表の仕方を、おかしいと思わなかったのでしょうか? そこに今回の論点がありそうな気がします。

「ぼくりり引退」騒動の本質とは?

 つまり、「天才」やら「革命的才能」というコテコテの形容詞を安易に用いてもてはやしてしまう、大人サイドの問題なのですね。

 実績も積み重ねも不足している若い人を、過剰に賞賛する風潮。持ち上げるだけ持ち上げといて、あとは面倒を見ないどころか、関心すら寄せない。丸投げの過保護とでも言えばよいでしょうか。そんな中で、ぼくりりの自信と苦悩は同時に大きくなっていったのではないかと思うのです。

 もちろん商売ですので、下駄を履かせるのは仕方ない面もあるでしょう。それでも、新人アーティストがデビューするたびに「天才」やら「革命」やらの言葉が飛び交うと、さすがにジンバブエドル並のインフレを起こしてしまう。

 きつい言い方になりますが、ぼくりり程度でも「天才」と呼んでもらえるのは、こうした音楽メディアの機能不全と無縁ではないはずです。

次に「天才の十字架」を背負わされそうな若者は…

 さて、もっと難儀なのは、ぼくりりが辞めるからといって、この傾向に歯止めがかかりそうもない点です。Abema TVで話題になり、ソフトバンクのCM出演まで果たした、中学生シンガーソングライターの崎山蒼志(15)。

「ゲスの極み乙女」の川谷絵音(29)や「くるり」の岸田繁(42)らから才能を激賞され、またしても“天才”の十字架を背負わされてしまっているからなのですね。

 この際、彼に才能があるかどうかは置いておきましょう。というのも、本当に深刻なのは、あるミュージシャンや作品を評価する際の基準が、いつまで経っても“才能”という曖昧なワードに支配されていることだからです。

 もしかしたら、健気でみずみずしいだけの若者に対して、これなら自分を脅かすことはないから褒めても大丈夫だと安心して、“才能がある”と認めているだけなのではないか。

 小説『月と六ペンス』などで知られる、イギリスの作家、サマセット・モーム(1874-1965)は、“才能”の当てにならなさについて、こう書いていました。

<散文や詩を書き、ピアノで小曲を作曲して弾く、絵を描くなど、生まれつき難なくやってのける若者は結構多いのだ。これは若さのエネルギーが溢れているというだけの、一種の遊戯であり、子供が砂上で城を造るのと同じく大したことではない。(中略)芸術関係で起きる悲劇の一つは、この一時的に豊かに見える才能を誤解したため、非常に多くの若者が芸術の道に一生を捧げようと決意することである。>
(『サミング・アップ』モーム著 行方昭夫訳 岩波文庫 p.93)

“天才”と“即戦力”は若者を使い捨てる呪文

 昨今、日本は“若者を使い捨てにする国”と言われています。実際にそのような政策やシステムが根付いているのでしょう。では、一体どうしてそれがパターン化してしまったのでしょうか?

 そう考える時、なにげない言葉遣いの中に染み付いてしまった思考法が見て取れるのだと思うのです。音楽メディアが持ち上げる“天才”や“革命的才能”は、ビジネスに置き換えると“即戦力”となります。

 どちらも、すぐに役に立つかわりに、後腐れなく捨てられる程度の意味ですよね。そんな刹那的な価値観が主流なのは、音楽業界もビジネスの世界も似たようなものかもしれません。

 なので、若い人はこのような甘い言葉を無邪気に使ってくる年長者には十分気をつけていただきたいと思います。ぼくりりの引退宣言は、その意味においてのみ意義深いものでした。

<TEXT/音楽批評・石黒隆之>

音楽批評。ipodに入ってる曲は長調ばかりの偏食家

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