「同期のブラマヨ、チュートには到底及ばなかった」元吉本芸人の放送作家が持つ“バランス感覚”
突如決まった“自分名義”の舞台
――なかなかの壮絶体験ですね。
桝本:東京には、吉本の「渋谷公園通り劇場」「銀座七丁目劇場」(当時)っていうのがありまして、そこに住み込みで作家をやらせてもらうことになりました。23歳、本当に下っ端からのスタートです。ある日、同じような立場の人たち8人が一斉に番組の企画書を書くことになったんですが、提出したその日、現吉本興業副社長でもある奥谷さんという方に寿司屋に呼ばれまして。「来月、お前が書いた舞台やるから」と突然言われたんです。
そこから2か月に1回、2時間の新作舞台を書き上げるようになりました。出演はガレッジセール、カリカ、カラテカ、ハイキングウォーキング、あべこうじなど後にテレビでも活躍する芸人たちです。学生時代、漫画賞に応募したとき、「画力×」「ストーリー△」という評価だったこともあるし、多少構成には光るものがあったんでしょうか(笑)。
箸にも棒にもかからなかった駆け出しの放送作家時代
――その後はどういうキャリアを?
桝本:テレビの放送作家もやるようになるんですが、最初は洗礼を浴びました。企画会議で、芸人経験もあったから、とにかくいろんなことを喋って存在感を出そうとしていたら、とある著名な先輩作家さんが、僕がしゃべるときだけ耳を塞いでいまして。そこで気づいたんです。“面白いと思われる語彙力”があるだけでは、社会では1人の戦闘員として認められないんだなと。
そこからは我を出すのをやめて、先輩たちに気持ちよくマウントを取ってもらうようにしました。口癖は「そうなんですか〜知らなかった」「ええー! すごいですね」です(笑)。でもそれって結構大事なことで、相手の心が傾くときって、こちらが耳を傾けて話を聞いている時。結局、こちらの話も聞いてくれるようになるんです。「傾聴」と「対話」のバランス感覚はどの世界でも必要とされるんじゃないですかね。