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視聴率20%超大河ドラマ『青天を衝け』で話題、渋沢栄一の知られざる人物像

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民間人ならではの、慈善事業への姿勢

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 先ほど、渋沢が「商人たちが営利だけを追求しないよう言っていた」点には触れたが、まさにこれを有言実行していた。生涯を通じて非常に多くの非営利・慈善事業にかかわっており、東京の弱者、貧民救済施設であった「東京養育院」もそのうちのひとつだ。

 東京養育院は、明治維新前後の混乱によって生まれた多数の困窮者を救うために、東京府(現在の東京都)知事の大久保一翁によって創設された。

 一方、当時渋沢は東京会議所と呼ばれる組織に属しており、多忙な毎日を過ごしていた。彼は業務の一環として養育院の監査役になるが、その後院長に就任。自身は「多忙なことを考えれば受けなくてもよかったが、社会のためになるとして院長になった」と語る。

廃止論が出るが頑として同意せず

 事業家としても優秀だった渋沢は養育院を効率的に運営していくが、明治15(1882)年になると、出資元の東京府が突如として「養育院廃止」に向け動き出してしまう。その動機は「慈善事業など怠け者を生み出すだけ」という、現代でもおなじみの自己責任論だ。

 しかし、渋沢は頑として廃止に同意しなかった。彼は本業で培った技術と人脈を巧みに生かし、最終的には運営資金を民間の寄付金でまかなうことを提案。人心をつかむ手法で寄付金を集めたため、多くの寄付金が集まり施設の存続が果たされた

 以後、渋沢は亡くなるまで約50年間も院長を務め、どれほど多忙な時期も最低月1回は養育院を訪問していたそう。彼の残した養育院は、現在でも「東京都健康長寿医療センター」として高齢者医療を支える病院になっている。

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