bizSPA!

本木雅弘、草彅剛が演じた「最後の将軍」。趣味に生きた男の“最大の功績”

コラム

敗北が招いた幕府の終焉

徳川慶喜

谷中(東京)の徳川慶喜の墓

 これより前、薩摩藩の西郷隆盛らが旧幕臣や佐幕派(親幕府派)を挑発するため、江戸の町に多数の浪人を放ち、乱暴狼藉をおこなわせてきた。結果、佐幕派が憤激し、三田の薩摩藩邸を焼き払ってしまったのだ。この情報が大坂城に伝わると、兵たちは騒然となった。彼らを抑えられないと判断した慶喜は、京都への進撃を許可した。旧幕府軍一万五千に対し、薩長軍は五千程度なので、戦っても勝てると踏んだのだろう

 こうして慶応四年一月三日、鳥羽口と伏見口で、薩長倒幕派の軍勢と武力衝突が起こったが、慶喜の予想に反して旧幕府軍はあっけなく敗北してしまう(鳥羽・伏見の戦い)。関東からは続々と旧幕府の兵がはせ参じつつあった。にもかかわらず、慶喜は戦意を喪失する。開戦から三日後、家臣たちに内緒で大坂城を脱し、港から船に乗り込んで江戸へ逃げたのである、当時、浜御殿(現在の浜離宮)に幕府の海軍所が設置されていたが、勝海舟は「海軍所の船着き場に来るように」との命令を突然受けた。

 勝が到着したときには、すでに慶喜を囲んで家臣たちが焚き火をしていた、勝は薩長と戦うことに反対だったから、彼らの姿を見て腹が立ち、皆に向かって「だから言ったではないか、どうするつもりだ」と罵った。しかし誰も反論しようとせず、青菜のように萎れてしまった、それを見て勝も「これほど弱っているのか」と情けなくなり、涙がこぼれそうになったという

 その後、勝と慶喜の間にどのような会話がなされたかわからないが、数日後、勝は海軍奉行並を拝命、さらに陸軍総裁、若年寄格となり、慶喜から徳川家の全権をゆだねられることになった。大坂からの逃亡のおり、慶喜は同行を命じた会津藩主松平容保や数名の側近には「江戸で再起をはかる」と威勢のいいことを言っていたが、勝に後始末を一任すると、江戸城を出て上野寛永寺の大慈院で謹慎生活を始めてしまった。

静岡での趣味人生活

 新政府は慶喜を朝敵とし、徳川を倒すべく東征軍を京都から進発させたが、これに西国諸藩が続々と加わり、大軍が江戸に迫ってくる状況になった。しかし勝らの必死の努力によって、新政府軍の江戸城総攻撃は中止され、慶応四年(一八六八=明治元年)四月十一日、徳川家は無血で江戸城を引き渡した

 この日、慶喜も処刑を免れ、その身柄は大慈院から生まれ故郷の水戸へ移されることになった。水戸では数日前に藩主徳川慶篤(慶喜の兄)が病歿しており、その事実はまだ公表されていなかった。この時期の水戸藩は、諸派に分かれて家臣たちが泥沼の抗争を続けていた。

 慶喜は藩校・弘道館の一室に幽居する。それから一月後、徳川宗家は六歳の田安亀之助(徳川家達)が継承することになり、慶喜の隠居が正式に決まった。五月には徳川家に静岡七十万石が与えられることになった。慶喜は政情が不安定な水戸を嫌い、静岡への転居を希望した。その要望は新政府の受け入れるところとなり、七月、慶喜は駿府の宝台院へ入った。明治二年(一八六九)九月、慶喜は新政府から正式に赦免されたが、二年後の明治四年、廃藩置県によって静岡藩(徳川家)は地上から消滅した。こうして完全に自由の身になった慶喜だが、それからも東京(江戸)へは戻らず、そのまま静岡に居続けた。

 生活費は徳川宗家から出たが、慶喜には何の仕事もなかった。まだ三十代半ばでエネルギッシュな慶喜は、そのエネルギーをもてあまし、毎日のように鷹狩りや馬の遠乗りをした。また、清水港までたびたび網打ちにも出かけた。慶喜の趣味は驚くべき多さで、和歌や俳句、囲碁や書、能といった伝統的なものに加え、写真、サイクリング、ドライブも好んだ。とくに明治二十六年(一八九三)から本格的に始めた写真術はプロ級で、華族の写真雑誌『華影』に投稿して二等賞を受賞したほどの腕前だった。

殿様は「明治」をどう生きたのか2

殿様は「明治」をどう生きたのか2

商社を経営しクリスチャンとなった三田藩九鬼隆義、箱館戦争まで参戦後20年隠棲した最後の老中安藤信正など、12名の元殿様の知られざる波乱に富んだ生き様を、人気歴史研究家が紹介

人気タグ

おすすめ記事