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酒でうっぷんを晴らす…幕末の英雄が迎えた「46歳のあっけない最期」

コラム

大政奉還が決定されるまで

高知城

高知城

 しかし武市に腹を切らせてまもなく、情勢が大きく変わる。薩摩藩が長州藩と密に手を結び、幕府を見限り、朝廷を中心とした雄藩連合政権の成立を目指すようになったのだ。これをイギリスがこっそりと支援し始めた。幕府は長州に革新政権が生まれたことで慶応二年(一八六六)夏に第二次長州征討を断行、ところが薩摩の支援を受けた士気の高い長州軍に敗北を喫してしまう。ちょうど大坂城の将軍・家茂が死去したため、征討軍は「将軍の喪に服す」として長州から兵を引いたが、幕府の敗北は明らかであった。このため、倒幕派は一気に勢いづいた。

 そうしたなかで親幕府派の容堂は、後藤象二郎が献策した大政奉還論に飛びついていく。これはもともと土佐脱藩浪人の坂本龍馬が後藤に献策したもので、徳川家が政権を朝廷に返還し、朝廷を中心とした雄藩の連合政権をつくろうという案だった。

 連合政権のなかには、もちろん最大の大名である徳川家も含まれていた。それゆえ、同案は慶喜の受け入れるところとなった。容堂は大いに喜ぶとともに、これによって土佐藩が政治のキャスティングボートを握れると確信した。かくして慶応三年十月十四日に大政奉還が決定された。

「あまりに陰険」倒幕派にかみつく

 ところが倒幕派は、王政復古の大号令(新政府樹立宣言)を発し、その日の小御所会議では、容堂の反対を押しきって前将軍・慶喜の「辞官納地」を強引に決定する。旧幕臣たちを暴発させ、武力で徳川家を打倒しようという算段だった。

 このとき朝議に参列した容堂は「こんなやり方はあまりに陰険だ。天下の大乱を誘うぞ」と大反対し、皆の前で徳川擁護論をぶち、「このような暴挙を企てた数名の公卿が、幼い天皇(明治天皇)を奉じて権力を盗もうとしているのではないか!」と吐き捨てたのである。

 これに対し、討幕派の岩倉具視や大久保利通は、容堂と刺し違える覚悟があると密かに伝えてきたので、さすがの容堂も身の危険を感じ、黙らざるを得なくなった。だが、その後も辞官納地には反対し、倒幕派を非難する建白書を朝廷に差し出している。新政府では総裁・議定・参与の三職が設置され、三職が政治をになうことになったが、容堂は、他の諸侯(大名)とともに議定に任じられた。

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