菅田将暉×有村架純で『鬼滅』抑えヒット。90年代生まれに怖いほど刺さる映画の「本質」
「内側」ではなく「外側」に置かれた信頼
なぜだろうか。なぜ、とことん好きなものが一緒で話が合うふたりの距離が、だんだんと離れていってしまったのか。そう考えるといやむしろ、「好きなものが一緒な“だけ”」だったから離れたんではないかと、鑑賞者の多くは気づくかもしれない。映画や音楽は、人が話を始めるのにとっておきのきっかけになる。でも、それは「本質」にはなり得ない。なぜならどこまでいってもそれは人の「外側」にあるものだからだ。
「あの人は私と同じ映画が好きだから、きっと性格もバッチリ合うに違いない」。そんなことが単なる思い過ごしにすぎないように、「外側」にある好きを勝手に自分の「内側」に転化してはいけない。
『花恋』の怖いところは、麦と絹がいつまで経っても映画や文学といった作品の「内容の話」をしはじめないところにある。なにがどう好きで、なぜ心に刺さったのか。言葉にしなくても「きっと同じ感想を抱いているのだろう」と、彼らは盲信してしまっている。
私たちは「本質」を語り合えるだろうか
お互いに天竺鼠の単独ライブを逃したのは確かだけど、理由はあんなに違ったのに。内側や本質といったものに、彼らはずっと触れようとしないのである。
いや、20代前半なんて、そんなもんなのだ。そもそも語る「言葉」を持っていないし、語れる「自信」もないし、熱弁する「勇気」もない。もしかしたら、本当に言葉にしなくとも彼らの心はほとんど通じ合っていたのかもしれない。
とはいえ、全く一緒の心を持っているなんてあり得ないから、それが徐々にズレていくころには、もう「話し合う」という手段すら彼らにはなくて、後戻りできなくなってしまっている。相手の「心」と向き合うことの、難しさと大切さ。私たちはいつになったら、お互いの「本質」を語り合えるだろうか。好きなカルチャーを捨てる必要はもちろんないし、一方でお金を稼ぐために就職することもやむを得ないことかもしれない。
しかしなにも考えずに生活や労働、カルチャー、あるいは恋人に身を預け、それでどうにかなるだろうというような楽観的思考は一刻も早くやめるべきである。そんな厳しさをも痛感させてくれる、特に20代の当事者にとってはほんとうに怖く身にしみる映画だ。
<TEXT/原航平>