本木雅弘、草彅剛が演じた「最後の将軍」。趣味に生きた男の“最大の功績”
時代を先取りしていた斬新な改革
慶喜は、政治組織も大きく改めた。これまでは複数の老中たちの合議制で幕政が運営されていたが、これを現代の内閣制度に近いかたちにしたのだ。将軍慶喜が政権の頂点に立ち、板倉勝静を老中首座に抜擢して官房長官のように政治を補佐させた。将軍のもとには国内事務総裁、外国事務総裁、会計総裁、海軍総裁、陸軍総裁を置いたが、これは現在の省庁の大臣のようなものといえよう。
さらに幕臣の西周や津田真道などに、新しい政治体制の立案を命じた。西周の「議題草案」と称する政治制度はその一つだ。同案は、大君と称する宰相が頂点に立って公府(内閣)と議政院(国会)を握る官制になっている。研究者の田中彰氏によれば、公府は大坂に置かれ、全国事務府、外国事務府、国益事務府、度支事務府、寺社事務府、学政事務府の六府(省)に分かれ、行政権だけでなく司法権も握るシステムになっているそうだ。
議政院(国会)は上院と下院に分かれ、上院は大名で構成されるが、下院は各藩主が人望のある人物を選んで議員に任じることとした。大君は、公府のリーダーとして政治を動かすとともに、上院の議長を務め、下院を解散させる権限を有していた。諸藩の存在は認めており、必ずしも欧米のような近代的統一国家ではなかったが、慶喜自身は藩を廃して郡県制度を成立させ、幕府を中心とする近代的統一国家を目指していたともいわれる。
また「議題草案」では、天皇には山城国を与えるとしたものの、政治に関与できない仕組みになっており、現代の象徴天皇制に近いかたちといえる。慶喜の慶応改革は一年で終わりを告げたため、経済政策では見るべき成果は出ていないが、その構想は驚くべきものだった。まずはフランス政府と六百万ドルの借款契約を結んだ。当時としては莫大な額で、この資金があったればこそ、軍事改革や武器・弾薬・艦船の大量購入が可能になったのだ。
新政府でも慶喜がリーダーに決定?
また、ロッシュは幕府に年貢以外からの収入を増やすように助言した。不動産税、営業税、酒や煙草、茶や生糸に対する物品税の創設を説いた。まさに、数年後に明治政府が実施する政策であった。さらに、鴻池など大坂の豪商数名とフランス企業を提携させて交易組織を立ち上げ、兵庫における貿易をこの組織に独占させる計画をした。
これもロッシュの提案で、フランス政府は対日貿易の独占をねらっていたわけだ。幕府は、フランス政府と借款契約を結んださい、蝦夷地、または九州の租借を約束したともいわれ、慶喜のやり方は、フランスによる植民地化の危険を招くものであった。ともあれ、もし幕府が倒れなければ、おそらく幕府自身の手により廃藩置県がおこなわれ、近代国家が成立していた可能性が高い。歴史の流れというのは、止められないものであることがよくわかる。
この幕政改革は倒幕運動の高まりにより、慶応三年(一八六七)十月に終わりを告げた。慶喜が大政奉還(政権の返上)をおこない、幕府自体が地上から消滅したからだ。大政奉還は、ほとんど家臣に相談することなく慶喜個人の意志で決定したとされる。だからこれを知った幕臣たちには反対した者も少なくなかった。だが、慶喜は「徳川家を存続させ、新しく朝廷に生まれる政府を支えよう」という政治判断があって、政権を返上したようだ。
ところが同年十二月九日、薩長を中心とする倒幕派が朝廷内でクーデターを起こし、王政復古の大号令を発して新政府の樹立を宣言、同時に慶喜に対して辞官納地(内大臣の免職と領地の返上)を迫った。倒幕派はわざと徳川家に厳しい処断を下し、徳川家が暴発したところを武力討伐してしまおうと考えたのだ。慶喜はそのもくろみを察し、京都の二条城から兵を率いておとなしく大坂城へ移り、事態を静観することにした。案の定、しばらくすると慶喜に同情が集まり、朝廷の新政府において倒幕派が失脚、慶喜が政権のリーダーになることがほぼ決定的となった。ところがまもなく、事態は大きく変化する。