コロナ禍の今、駄作と言われた『ゲド戦記』が再評価されるべき4つの理由
2:アレンが映す、閉塞感に悩む若者の姿
劇中の「人間たちがおかしくなってきている(均衡が崩れてしまう)」出来事の中でも、もっともショッキングに描かれるのが、冒頭で主人公のアレンが王である父を刺してしまうことです。これは、アーシュラ・K・ル=グウィンの原作には書かれていないことでもあります。
実は、この「父殺し」を提案したのは鈴木敏夫プロデューサーであり、そこには「吾朗くんは父親(宮崎駿)のコンプレックスを払拭しなければ世の中に出られないだろう」という、作り手のメタフィクション的な視点も盛り込まれていたようです。
しかし、当の宮崎吾朗監督はアレンを自分自身の投影として見ていたわけではなく、客観的な視点から若者の気持ち(悩み)に寄り添える存在として考えていたそうです。
実際に、アレンは普遍的な「閉塞感に悩み、自暴自棄になり、衝動を抑えられない若者」として描かれています。
序盤でアレンはテルーに(自身を助けてくれたとしても)命を軽んじていることを非難され、中盤でアレンは「わからないんだ、どうしてあんなことをしたのか」「ダメなのは僕のほうさ。いつも不安で自信がないんだ。それなのに時々、自分では抑えられないくらい、凶暴になってしまう」と、「理由がわからない」ことそのものに悩んでいたことを打ち明けます。
なぜアレンは父殺しをしたのか
しかし、彼がそこまで悩み、父殺しまでしてしまったことの理由は、劇中でも描かれているように思えます。例えば、冒頭でアレンの母である王妃は、侍女がアレンの姿が昨晩から見えないことを告げたことに対し、「やめなさい。陛下はお忙しいのです。お前たちもわかっているでしょう」「情けない、アレンも17。もう子どもではありません」「余計な気を煩わせて申し訳ありません。どうか、王は民にだけお心を」と言っています。
彼女は絵に描いたような「夫の仕事だけを重視し、子どもの気持ちなんて考えようともしない」母親だったのです(そのくせ、王妃は高級そうな猫を、大事そうに腕に抱えていたりもしていました)。
これもまた、現実のコロナ禍でこそ身につまされる描写です。王は疫病をはじめとした世界の均衡の崩れの対応に追われており、それは現実での新型コロナウイルスに翻弄される為政者の姿を彷彿とさせます。
そこまでの権力を持たなかったとしても、コロナの影響で仕事に大きく影響が出ているという人がほとんどでしょう。だからこそ、自暴自棄になり父殺しの衝動まで持ってしまう若者のアレンの姿は、(父または母の立場から)「自分もこの不安な世の中で仕事ばかりに追われ、子どもの気持ちに気づけていないかもしれない」と、襟を正すきっかけにもなるでしょう。
また、アレンの影と思われていた存在が実際は光であり、実体となっている(父を殺した)アレン自身のほうが影だった(光から逃げていた)という事実も、劇中では提示されます。それは、人間の心には抑えられない衝動、つまり影(心の闇)が基本としてあることを認め、そして恐れていた光(希望)を受け入れることが必要なのだ、というメッセージなのでしょう。このことは、現実で閉塞感に悩む若者にとっては、福音になると思うのです。