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ジャニーさんの勇気から生まれた『金八先生』の関係性

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近藤真彦が振り返る、合格の瞬間

 ジャニー氏が見込んでいたからオーディションに連れて行ったとはいえ、のちの『たのきんトリオ』を生んだのは、TBSのプロデューサーだったのだ。当時、『金八先生』が大ブームを巻き起こすとは予想だにされていなかった。近藤真彦は、合格の報告を受けた時の状況をこう振り返っている。

〈「参ったなあ、どうしようか」なんて言ってたら、オヤジが後ろのほうで「クックックッ」って、からかうみたいに笑うんだ。で、「お前の手だけでも、テレビの端っこのほうにチラッと映ったら、100万円やるよ」なんて言って、初めっから相手にしないって感じなんだよ。だから、またまた僕も軽いしゃれのつもりで撮影に行ったんだよね〉(書籍『もう一杯ぶん話そうか』1992年4月発行)

 10月26日、『金八先生』の第1話は視聴率16.6%(ビデオリサーチ調べ/関東地区。以下同)と好発進。テレビ朝日『ワールドプロレスリング』の13.5%も上回る数字だった。

 11月には、中学3年生の妊娠を描いた『十五歳の母』が放送され、大きな反響を呼ぶ。ドラマの盛り上がりは加速し、翌80年3月28日の最終回は39.9%と社会現象になった。

 のちに、柳井氏は『金八先生』の収録で使っていたTBS・Gスタジオの横を通る度にある考えが浮かんでいたと告白している。〈もしあの時、ジャニーズ事務所の依頼を断っていたらと思いぞっとするのです〉(『青春と読書』1986年3月号)

亀梨、八乙女…「金八」が生んだスター街道

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※画像はイメージです

 ジャニー氏も、柳井氏への感謝が絶えなかったはずだ。『金八先生』をキッカケに、3人の人気が沸騰。1980年6月に田原俊彦、12月に近藤真彦、1983年9月に野村義男率いる『The Good-Bye』がレコードデビューし、いずれも日本レコード大賞最優秀新人賞を獲得。『たのきんトリオ』がジャニーズ事務所を再興させた。

『金八先生』には1980~1981年の第2シリーズでひかる一平、88年の第3シリーズで森且行(SMAP)、長野博(V6)、99年の第5シリーズで風間俊介、亀梨和也(KAT-TUN)、01年の第6シリーズで増田貴久、加藤シゲアキ(ともにNEWS)、04年の第7シリーズで薮宏太、八乙女光(ともにHey!Say!JUMP)など毎シリーズ、ジャニーズ事務所の所属タレントが生徒役として登場。

『金八先生』からスター街道を歩むという1つのレールが出来上がった。

 40年前、ほぼオーディションが終わっているにもかかわらず、ジャニー氏が諦めずに勇気を持って柳井氏に頼み込まなければ、現在に続くジャニーズ事務所の繁栄があったかはわからない――。

<TEXT/岡野誠>

ライター・芸能研究家。本人へのインタビューや関係者への取材、膨大な資料で構成する著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)は3刷に。ジャニー氏と田原がレコーディング時に歌詞について意見を戦わせた逸話も綴っている

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