ジャニーさんの勇気から生まれた『金八先生』の関係性
7月9日に逝去したジャニーズ事務所の創業者であるジャニー喜多川氏のお別れ会が、9月4日に東京ドームで行なわれた。
ジャニー氏のエピソードも豊富に綴られた『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)の著者で、ライター・芸能研究家の岡野誠氏が、ジャニーズ事務所再浮上のキッカケとなった1979年の『3年B組金八先生』(TBS系)オーディションを振り返る。
苦境のジャニーズ事務所を救ったもの
あの時、勇気を出していれば人生が変わっていたかもしれない。誰しも、そう思うことがあるのではないか。40年前の夏、ジャニー喜多川社長が自らを奮い立たせたことで、ジャニーズ事務所の道は開けていった――。
1962年の創業以来、ジャニー氏はジャニーズ、フォーリーブス、郷ひろみとスターを生み出してきた。しかし、1975年に郷ひろみが移籍、78年にフォーリーブスが解散。70年代後半、事務所は苦境に陥っていた。
1979年、TBSの柳井満プロデューサーは金曜夜8時台を任された。日本テレビの『太陽にほえろ!』が視聴率25%を超えることも珍しくない枠で、他局にとって鬼門の時間帯だった。
脚本を託した小山内美江子の「中学3年生について書きたい」という申し出を受け入れた柳井は、約30名の生徒役を募集した。選考が終わりかけていた時、ジャニー氏から1本の電話が入った。
『金八先生』出演が決まった“3人”
柳井氏は、その時の気持ちをこう綴っている。〈正直に言ってその時はもう〆切りましたと言おうかと思いながら電話に出ていたのですが、相手の熱意に押されて〉(『青春と読書』1986年3月号)
気乗りしないまま、ジャニー氏の勧める10名ほどの子供に会うと、柳井氏はその中から4名を抜擢した。すでに選ばれていた生徒役は、ドラマの格になる鶴見辰吾(宮沢保)がホリプロ、杉田かおる(浅井雪乃)が浅井企画という大手プロダクション、他は児童劇団の所属が目立っていた。
柳井は、演技の経験を積んでいる彼らにはない“洗練されていない魅力”や“学生らしさ”をジャニーズ事務所の4人から感じ取っていた。つまり、“踊りのレッスンはするが、演技指導はしない”というジャニー氏の方針が見事にハマったのである。
しかし、1人はバンドメンバーとして他局の番組に出演中でスケジュールを確保できないため、断念。その結果、田原俊彦、近藤真彦、野村義男の3人が『金八先生』に出演することになった。