売上1兆円マルハン社長「従来のパチンコをぶっ潰した」。業界を変える闘いを語る
今も語り継がれる1981年夏の甲子園決勝「報徳学園高校 対 京都商業高校(現・京都学園高校)」。
現在、パチンコホール経営最大手・マルハンの代表取締役東日本カンパニー社長を務める韓裕(はん・ゆう)氏は、京都商の5番レフトとして出場し、大フィーバーを巻き起こしたことは前回の記事で触れたとおりだ。
しかし、韓は「決勝で注目されたことよりも、甲子園の舞台に立つ自分を思い描き、努力を積み重ねて実現させるまでの苦しい日々の方が忘れられない」と振り返る。全3回のロングインタビュー。第1弾の記事、第2弾の記事に続く、第3弾をお届けする。
野球部での苦労体験がマルハンに生きた
「はっきり言って、めちゃくちゃ大変でしたよ。京都商の新入部員は180人。中学時代は“4番でエース”だった近畿地方の有力選手ばかり集まっていましたから。肘を壊して投手から野手に転向し、最終的には5番を打っていましたが、3番も4番もコンバート組でした。控えの選手もレベルが高く、周りは友達というよりもライバル。
ポジションを奪われないよう必死で、いつもギリギリの精神状態でした。でも、この3年間の経験がマルハンでも生かされました」
大学卒業後、不動産会社勤務を経て、90年に26歳で父が経営するマルハンに入社。すでにパチンコホール30店舗、売上高1000億円の業界大手ではあったが、当時のパチンコ業界は閉鎖的で異質な場所だった。
当時のパチンコ業界は閉鎖的で異質な場所
韓は「パチンコをサービス業として誇れる仕事にする」という新たな夢を描いたが、現実は自身が思っていた以上に酷いありさまだった。
「当時のパチンコ店は職人気質のいわゆる“釘師”と呼ばれる人がいて、釘師が引き連れてきた子分が店員として働き、彼らに店舗運営を頼り切っていました。『金を稼げればいい』『客になめられたら終わりだ』という考え方なので、経営者は店員を信用していません。経営者は店員を監視し、店員はお客を監視するという、おかしな世界だったんです」
韓が思い描く理想のパチンコ店は、丁寧に礼儀正しくお客を迎え入れ、レジャーとして楽しんでもらう店。ファストフードやファミレスのように女性アルバイトが活躍し、地域に親しまれる店を作ることだった。