『鎌倉殿の13人』では描かれない?東大教授が教える、源頼朝の“すごい機転”
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が話題を呼ぶなか、「なぜ、長い間、貴族が政権を持っていた日本で、突然武士の政権が生まれたのか」について、新たに関心を抱く人も少なくないのでは。そこで、東京大学史料編纂所教授である本郷和人氏に、源頼朝による鎌倉武士政権や北条氏の執権政治の成り立ちについて解説してもらった。
以下は、本郷和人著『東大教授がおしえる シン・日本史』の一部を編集したものです
朝廷と幕府がタッグを組んで日本を治める
鎌倉時代の大きな特長は、天皇と貴族が治める京都の朝廷のほかに、源頼朝と関東の武士たちで作られた幕府という二つの権力が同時に存在していたことです。
昔から長らく日本を治めてきた朝廷に対して、頼朝が率いる鎌倉の武士集団はいわば新参者。そのため、武士たちの大きな課題は、「京都にある朝廷に、どうやって存在を認めてもらうか」でした。頼朝は、朝廷からいろんな権限を引き出すために、様々なサービスを考えて、存在をアピールします。
たとえば、当時、鎌倉の武士たちが拠点にしていた関東は、まだまだ田舎でした。そこに目を付けた頼朝は、「僕ら幕府に権限をもらえれば、武力を使って関東を中心とした東国を安全安心な平和な場所にします! さらに、その土地で手に入れた税金もきっちり京都の朝廷さんに納めます! だから、私たち武士たちと一緒に日本という国を治めましょう」と朝廷に提案します。
頼朝のきめ細やかなサービスや配慮
その話を聞いて、京都の朝廷も「まぁ、世の中も平和になるし、税金ももらえるなら悪くないかな」と考え、幕府の提案を受け入れました。こうした頼朝の提案のひとつとして1185年に設置されたのが、日本のそれぞれの国を守る警察のような役目を果たす「守護」と、荘園ごとに税金を徴収する役割を持つ「地頭」です。
これによって、鎌倉幕府の力が全国に及ぶことになったため、日本史の教科書では、1185年が鎌倉幕府の成立した年だと教えられています。
こうした頼朝のきめ細やかなサービスや配慮が功を奏して、1192年に天皇は源頼朝を征夷大将軍に任命します。朝廷が正式に「あなたたちの存在を認めましょう!」とお墨付きを出したことで、鎌倉幕府は日本で初めての武士による武士たちの政権として、力をもつようになっていいました。