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『青天を衝け』で話題になった“悲劇のヒロイン”。政略婚から手にした真実の愛とは

コラム

幕府独断の兵庫開港が招いた騒動

神戸港

現在の神戸港 ※画像はイメージです(以下同じ)

 大坂にやってきた慶喜は、その決定を知って、「そんなことをすれば天皇の心証を悪くし、幕朝間に大きな亀裂が入る。諸藩も納得せず、大混乱が起こるのは必至。まずは、朝廷の説得に全力を尽くして勅許を得ることが先決である」、そう強硬に反対した。

 ところが、阿部と松前は時間のないことを理由に決定を変えようとせず、両者の間に長時間の激論が交わされた。両者とも意地になっていたのだろう。この激突を目の当たりにした将軍家茂は、自分が最高権力者の地位にありながら、何もできない無力さに「もう勝手にしてくれ」としきりに無念の涙を流したという

 結局、若年寄の立花種恭(たねゆき)が列国公使から十日の猶予を取りつけてきたことで、将軍家茂が直接上洛して朝廷に勅許を仰ぐことに決まり、その予備交渉のため、慶喜はただちに大坂城を発って京都へ向かった。

 だが、慶喜が去ったあと、ふたたび幕閣の空気が変わり、将軍はいつまで経っても上洛の様子を見せなかった。違約に激怒した慶喜は、阿部・松前を幕閣から除こうと、朝廷に巧みな工作をおこなって、「両人を罷免する」という朝旨を将軍家茂へ出さしめたのである。天皇が老中の免職を命ずるのは開幕以来の出来事だった。

慶喜にコケにされた家茂の怒り

 当然、幕府の役人の任免権は将軍にある。どう考えても朝廷の越権行為だ。ここまで慶喜にコケにされては、温厚篤実と言われた青年家茂も怒りに震えた。

 家茂はなんと、朝廷に将軍辞職願いを提出するや、すぐさま大坂城を捨てて江戸へ向かい始めたのである。辞職願いを朝廷へ差し出した将軍は前代未聞だった。なおかつ家茂は、「次期将軍に一橋慶喜を推薦する」という推薦状まで添えたのだった。これは家茂の、老中罷免に対する朝廷への抗議行動であり、同時に慶喜に対する最大の嫌味だった

 事態を知って慶喜は死ぬほど驚き、ただちに将軍のあとを追い、ようやく伏見で追いつくや、「必ず自分が勅許を得てくるから、どうか辞職だけは思いとどまっていただきたい」と家茂に懇願した。その哀願に免じて家茂は東下を中止し、大坂城に引き返した。

 結果的に兵庫の開港については朝廷の承諾を得られなかったが、慶喜は公家たちを脅したり、すかしたりして、日米修好通商条約の勅許を得ることに成功する。この成果は、慶喜の名声をさらに高めることになった。

 江戸の和宮は夫の無事を祈って、お百度を踏んでいたが、勅許が出たことを知って衝撃を受けた。「自分が嫌々ながら武蔵野の地で果てる覚悟で江戸に来たのは、攘夷を実現させるためではなかったか。なぜ、慶喜は強引に勅許を得たのか」という怒りに震えた。

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