就職先で“Fラン”扱い…「戦後最も偉大な総理大臣」の挫折だらけの青年期
成績がいい人が集まるのは大蔵省
このとき、故郷広島選出の代議士で立憲政友会の実力者だった、望月圭介の推薦を受けています。池田家は地域の郵便局長を務めていて、望月の支援者でした。
池田が大蔵省か内務省か迷って相談に行くと、食事中だった望月は箸を転がしてその方向を見てから、「う~ん……大蔵省に入れ」とつぶやいたとか(『池田勇人ニッポンを創った男』一五頁)。楽しい人です。当時、司法省(司法官)と外務省(外交官)は独自の試験を設けていました。また、陸海軍省へは軍人が入りますので、これも別枠です。
それ以外の役所の中で、格が高いのは内務省と大蔵省です。内務省は「官庁の中の官庁」と言われ、特に内政において強力ではありましたが、成績がいい人が集まるのは、実は大蔵省でした。今も昔も大蔵省(財務省)は、日本で一番入るのが難しい役所と言えます。
職員を大量採用する必要があった内務省
内務省には、必ずしも成績優秀でなくても入れました。当時、知事は選挙によって選ばれるのではなく、内務省から派遣されていました。そして、内務省の課長の優秀な人材が地方に行き知事となり、彼らのうち優秀な者が局長として東京の本省に戻ってくるというシステムでした。だから、内務省は職員を大量採用する必要があったのです。
水谷三公『官僚の風貌』(中央公論新社、一九九九年)一六二頁には、「戦前の大蔵省なら十人前後の学士採用が普通で、成績上位組に絞った採用も可能だったが、内務省は四、五十人、年によっては六、七十人にも及ぶ採用規模だった。高文合格者は三、四百人だから、他省と競合しながら、成績抜群だけで採用定数を充足させるのはもともと難しかった」とあります。
そのため、試験の席次が二二二番の内務官僚もいます。二二二番と言えばビリから数えたほうが早いぐらいの席次です。後の内閣法制局長官・法務大臣の高辻正己です(同、一四一頁)。
内務省は政治家との付き合いが大事なポストです。それに対して大蔵省は、お金(経済・財政)という特殊な技術を扱う役所です。言い換えれば内務省がジェネラリスト集団で、大蔵省がスペシャリスト集団です。そして、必ずしも成績優先ではない内務省に対して、大蔵省は成績優秀なエリートぞろい。