就職先で“Fラン”扱い…「戦後最も偉大な総理大臣」の挫折だらけの青年期
試験地での佐藤栄作との出会い
それはともかく、統一入学試験の試験地であった名古屋で池田は佐藤栄作と出会っていて、佐藤もまた五高に入学しています。一高を諦めきれなかった池田は「仮面浪人」をします。五高を一年休学し、一高を目指しますが、再び不合格となり、諦めて五高にとどまります。それで、佐藤の一年後輩となってしまいました。
しかし、池田はまったくめげずに、というか逆にめげて自暴自棄になったからなのか知りませんが、五高ではハチャメチャな生活を送っていたようです。通常の学生が月に二十五円程度でやりくりしていた時代に、池田は月額百円以上の仕送りを受けていました。
学校をさぼって昼間から、囲碁を打ったり、友人を誘って酒を飲みに行ったりするものだから、たっぷりの仕送りも使い切ってしまいます。それで小遣い稼ぎに池田屋という屋台(居酒屋)を開いたのですが、ほとんどの客にツケで飲ませたので三日でつぶれてしまいました(土師二三生『人間 池田勇人』講談社、一九六七年、三一~三四頁)。
こんな放蕩生活を送りながらも、池田は大学を受験します。しかも目指すは東京帝国大学! そして、またもや不合格になり、京都帝国大学法学部に入学します。京都帝大でも世間的には御の字の名門大学です。しかし、兄は家業を継ぐため進学できず、優秀な次男坊勇人は家の期待を一身に受けていました。
中学受験を皮切りに、高校受験でも失敗し、今風に言えば大学受験では「仮面浪人」でも成功せず、でした。ちなみに五高に入った佐藤栄作は東京帝国大学法学部に合格し、卒業後は鉄道省に入省しています。
「ナンバースクール」と呼ばれた当時の学制
ここで当時の学制について簡単に触れておきます。一高(第一高等学校)や五高(第五高等学校)など第〇高等学校は「ナンバースクール」とも言われ、明治期に創設された歴史が古い学校です。その後にできた他の高校より格上のエリート校でした。
名前は「高等学校」でも、現在の大学の教養学部に相当します。そして、帝国大学は大学の三~四年次から大学院修士課程程度に相当します。一高が東大駒場で東京帝大が東大本郷のようなイメージです。今の六・三・三・四制のように単純ではないので、何歳だからこの学校に通っていると一概に言いにくいものがあります。
大学での池田は五高時代とはうってかわって、まじめな生活を送り、成績もトップクラスです。高等文官試験に合格し、大正十四(一九二五)年四月、大蔵省に入省します。高等文官試験とは、高級官僚になる試験です。