就職先で“Fラン”扱い…「戦後最も偉大な総理大臣」の挫折だらけの青年期
2021年10月に発足した岸田文雄政権。先立って行われた総裁選で岸田氏は「令和版所得倍増計画」を目玉のひとつに掲げていた。この政策、どこか既視感がある。そう、1960年に発足した池田勇人内閣で策定された同名の経済政策から拝借しているのだ。
実は、岸田氏は、池田勇人と同じ広島県出身で、岸田派のはじまりは池田が創立した「宏池会」だ。今、日本がギリギリ踏みとどまっていられるのは「『池田勇人』のおかげ」と述べるのは憲政史家の倉山満氏(@kurayama_toride)。
“戦後最も偉大な総理大臣”と呼ばれる池田勇人とはどんな人物か。その実像に迫った話題の新刊『嘘だらけの池田勇人』(倉山満)より、池田の生い立ちを紹介する(以下、同著より一部編集の上、抜粋)
池田勇人は、エリート人生だった?
最近、「イケダハヤト」というブロガーがいるそうです。ブログを書く人だからブロガーです。若い人に「イケダハヤト知ってる?」と聞くと、「イケハヤでしょ」と答えが返ってくるとか。イケハヤ氏、本名は池田勇人だそうで。明らかに親御さんが、歴史上の人物にあやかって名付けていますね。だとしたら、立派なご両親です。さて、教科書で一度は目にしたことはあるであろう、池田勇人の印象です。
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【通説】
池田は裕福な家に生まれ順風満帆の幼少年時代を過ごし、一流大学を出て大蔵官僚となった。早くから大蔵大臣や通産大臣のような要職を務め、最終的には総理大臣になった。最初から最後までエリート人生を歩んだ人物である。
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池田が政治家をしていた時代、世間の印象はこんな感じでした。まあ、半分くらいは本当ですが、池田の人生を丹念に追うと、印象はだいぶ変わってきます。たしかに池田勇人は裕福な家に生まれ、京都帝国大学法学部を卒業し、大蔵省に入りました。京都帝国大学は一流大学ですし、大蔵官僚と言えば、当時も今もエリートです。
そして官僚のトップの大蔵次官になり、その直後に衆議院議員初当選で大蔵大臣、最終的には総理大臣にまでなるので、何の障害もなく位人臣を極めたような印象があるかもしれません。しかし、池田の若い頃は挫折、挫折、挫折、挫折また挫折と、挫折の連続なのです。
挫折の連続だった池田の青年期
池田勇人は明治三十二(一八九九)年十二月三日、広島県豊田郡吉名村に生まれました。十九世紀生まれ最後の総理大臣です。父・吾一郎、母・うめの次男、七人きょうだいの末っ子で、長女とは二十歳も差があります。このような家庭環境の中、勇人はたいそう甘やかされて育ちました。
資産家の父はレンガ工場、銀行業、たばこ栽培、海運業、郵便局経営などさまざまな事業に手を出し、成功したり失敗したりしています。お父さん、多少の失敗は気にせずトライ&エラーの人だったようで、池田家は最終的には造り酒屋として成功した地元の名士さんです。子供の頃は子分を率いてイタズラを繰り返すガキ大将でした。しかし、受験では全戦全敗です。