志村けん主演は叶わなかった『キネマの神様』、賛否両論呼びそうだが必見の一作
原作小説が大胆に脚色された理由
実は、映画『キネマの神様』の内容は原田マハの原作小説と大きく異なっている。何しろ、映画における50年前の過去パートは、山田監督が自身の若き日を重ねて脚色した、映画オリジナルのものなのだ。
共同脚本も務めた山田監督は「映画監督を夢見ていた過去」と共に、「淡い三角関係が昭和時代から現代まで続いている構造」を取り入れ、「1950年~60年代の、映画が娯楽の王様と言われた時代、当時助監督だった自身を育ててくれた、活気に溢れた撮影所が舞台だったら面白いのでは」と考案した。自身が監督を目指した青春時代を、主人公のゴウの人生と重ね合わせることで、映画を軸にした若者たちの人間ドラマ『キネマの神様』を描ける、というねらいがあったのだ。
この改変に原作のファンからは否定的な声もあがるかもしれないが、実は当の原作者である原田マハはこの山田監督の提案に賛同し、自ら脚本作りの後押しをしたという。その上で原田マハは「映画の作り手側に迫ったことで、原作よりも『映画』の部分を凝縮されていて、ゼロからこれを書けと言われても私には絶対に書けない、『山田監督にしか描けない世界』がありました」(原田マハ公式ウェブサイト「マハの展示室」より)と絶賛をしている。
実際に映画本編を観て、その上で原作を読み直しても、「これはこれで新しい『キネマの神様』の物語」だと、大いに肯定的に思える内容になっていた。原作にあった溢れんばかりの映画愛は、この映画オリジナルの過去パートから存分に伝わるし、ダメ男なのに憎めない主人公を筆頭に、キャラクターの魅力も引き継がれ、その過去がわかるからこその深みも与えている。原田マハが、大きく脚色されたこの映画を原作とした小説『キネマの神様 ディレクターズ・カット』を新たに執筆したことも、いかに映画オリジナルの要素が気に入ったのかという証拠だろう。
ちなみに、その過去パートは色男の菅田将暉のカッコ良さと、永野芽郁が可愛さがものすごいことになっており、野田洋次郎のマジメな男との三角関係も含めて、ずっと観ていたくなるほどの尊さに満ちている。なおかつ、若き日の主人公のゴウは、これほどにまで「誰かの幸せ」を望み、そしてとてつもない「挫折」も味わう、とても好感が持てる青年であったことがわかるので、いかに現代パートで沢田研二が演じる同役がダメダメでも、やっぱり「愛してしまう」魅力のある主人公となっているのだ。
また、菅田将暉は、空回りしてうまくいかない苛立ちを「怒り」のような感情で演技したことがあったそうだが、それを観て一晩熟考した山田監督は「ゴウはたぶん泣き出しちゃうと思うんだ」と役の心情を目を潤ませて語り、もう一度撮影をすることになったという。実際の本編でも、「思うようにできない」彼の心情が、痛切なまでに表現されていた。ぜひ、菅田将暉の「繊細さ」も大いに伝わる名演を、見逃さないで欲しい。
賛否両論もあるだろうが、それでも肯定したい
ここまで『キネマの神様』を賞賛したが、正直に言って賛否両論を呼ぶことも予想できる内容だ。何しろ、ダメ人間を主人公とした作品であると同時に、その「正しくなさ」を最終的には否定していない。「映画愛」で彼の人生そのものを肯定してしまう内容とも言えるのだから。
ネタバレになるので詳細は控えるが、終盤に明かされる「かつての主人公のゴウの行動」と、「結末(とその時のナレーションの言葉)」には、かなりモヤモヤした気持ちを覚えてしまう方も多いのではないだろうか。それも含めてダメ人間を愛してやまない山田監督の「らしさ」とも言えるが、いかに沢田研二や菅田将暉という役者の魅力があったとしても、物語そのものに全く肩入れができない方も当然いるだろう。それ以前に、家族に迷惑をかけるばかりで、ほとんど反省もすることがない主人公を必要以上に嫌ってしまう可能性もある。
だが、映画『キネマの神様』はそうしたダメさ、間違ってしまうことさえも、映画という魔法で包み込むような作品なのだ。何より、映画はもちろん世にたくさんある創作物は、道徳の教科書のような「正しさ」だけを描くのではない、多かれ少なかれ「間違ってしまう人生の瞬間」を描くものだと思うので、個人的には肯定したいのだ。
そして、可能であれば、映画を観た後に、ぜひ原作小説も読んで観てほしい。実は、映画オリジナルの過去パートだけでなく、現代パートもかなり大胆な改変がなされている。また、原作小説の単行本が出版されたのは2008年12月でまだ配信サービスが台頭してないDVDレンタルが主流の時代だったが、映画の現代パートは新型コロナウイルスの脅威が忍び寄るその時に変更されている。そうした違いを比べるだけでも面白いし、どちらも違う形で映画愛に満ち満ちていることがわかるからだ。
ちなみに、原田マハによると原作は「私小説」に近い内容で、「物語の3割ほどは実体験に基づき、残りの7割はファンタジー風になっているが、自分の人生がこんな感じになればいいな、父の人生にこんな温かな奇跡みたいなものが起きてほしい、という願望を込めた部分もある」(本の話「父の人生に願いをこめて」より)とのことだ。この映画版では、原作とは違う形で、原田マハ自身と、その(劇中と同じくギャンブル好きで借金まみれだった)父の、「こうだったら良かった」という「IF」を、新たにフィクションで叶えてあげたような優しさも感じることもできた。
そして……「やはり志村けん主演で観たかった」という気持ちもあるのだが、この『キネマの神様』という映画そのものが、やはり彼への「追悼」そのものになっていると思う。その理由の筆頭はやはり沢田研二が完璧なまでに彼の代役をこなしていること。そして、前述したように新型コロナウイルスの影響に屈しない、しかも映画そのものへの愛情でいっぱいの作品になっていたからだ。映画が好きな方はもちろん、コロナ禍で暮らす全ての人にとっても、きっと山田監督からの大切なメッセージを受け取れるだろう。
<TEXT/映画ライター ヒナタカ>
【参考記事】
映画ナビ最新ニュース:「今をときめく原田マハが原作、ファンは新鮮さを楽しめる?菅田将暉主演・映画化の魅力は“原作にないストーリー”『キネマの神様』」
本の話:「父の人生に願いをこめて」(2020.4.7、原田マハ)