もう「同じような毎日」には飽きた…生を充実させる“先人の知恵”とは
「もう同じような繰り返しの毎日に飽きてきたよ……!」
この記事では「DECODE哲学書専門の本屋」を運営している私が、日常生活や仕事における疑問や悩みについて、先人の哲学者たちの智恵を借りながらその検討方法を考えていきます。
今回は「繰り返しの日常に飽きてしまった」ということについて。仕事や家庭の場面で、みなさん1度や2度は思ったことがあると思います。さて、今回はどんな哲学者がどんなことを教えてくれるのでしょうか。
代わり映えのない日常
・最近なんだか毎日同じようなことを繰り返しているような気がする。
・月曜日に仕事が始まって金曜には疲れ果て、週末が過ぎてしまえば月曜日からはまた仕事が始まる。
・もちろん全く同じ日なんてないけど、この単調な日々にもさすがに嫌気がさしてきた。
・とはいっても別に他の仕事を探すほど、他にやりたくないわけでもないし、この生活にそれなりに楽しさは感じてはいるけど、生活に“張り”がないというか、このまま続けていいのかという漠然とした虚しさがある。
といったようなことを思う時って、ありませんか。筆者の私も、ご多分に漏れず時折同じようなことを感じる時があります。
毎朝同じ時刻に起きて、あれやこれと仕事をしている内に、あっという間に17時を知らせるチャイムが聞こえて日は沈んで、もうすっかり暗くなれば昨日見た同じような光景が目の前にあります。そしてこんな一日を何回繰り返しているのだろうか、なんてことを考えてしまいます。
では、こうした感情はどうして起きるのでしょうか。そしてこうした気持ちを振り払うことはできるのでしょうか。
ハイデガーのいう「本来性」とは?
フランスの哲学者マルティン・ハイデッガー(1889-1976)は、彼の主著である『存在と時間』でこう語っています。
<現存在の頽落(たいらく)的日常性は、死の確実性をしっているけれども、それをおのれの存在において確かめることを避けている。しかしながら、この逃避は、それが何に臨んでたじろぐのかという点に着目するならば、死はひとごとでない、係累のない、追い越すことのできない、確実な可能性として把握されなくてはならない>(『存在と時間』(1994)マルティン・ハイデッガー 細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫)
少しハイデガー特有の専門的な言葉が含まれていて難しさはありますが、「現存在」というのは私たち人間のことを指しています。
そして前後の文脈も含め簡単に要約すると、私たちが本来的な可能性から離れ日常に頽落してしまうのは「ひとごとでない、係累のない、追い越すことのできない、確実な」死からの「逃避」が根源的な原因であると彼は語り、こうした生き方を批判しました。