品川祐、お笑い芸人になる前の夢「僕のなかの小さな芸能界だった」
「辞めるんだったら、庄司とやってみれば?」
――23歳で、よしもとの養成所に入っています。お笑い芸人を志したきっかけは?
品川:ダウンタウンさんですね。本当は広島に行った頃ぐらいから思ってましたけど、「お笑い芸人やりたいな」って思いと実際の行動が合致しなかったんですよ。水商売の仕事してる頃、カラオケの司会とかもやっていて、それが僕のなかの小さな芸能界だった。芸能人で成功するのは難しいけど、水商売ならっていう思いがあったんですよ。ただ、けっこうフワフワしてた時期でもあったんです。そんなときに東京NSCができたんで行ってみようと。
――養成所で、同期の庄司智春さんとコンビを結成。どちらが最初に声をかけたんですか?
品川:僕のほうからですね。ネタをつくってすぐ渡して、「じゃネタ合わせしよう」って言った日に、庄司が友だちと熱海旅行かなんかに行っちゃったんですよ。で、僕もせっかちだから、もう1人にもネタを渡しててソイツとやったんです。そしたらわりとウケたんですよ。庄司もそれ見てて、「ほかのヤツと組んだのか」ってあきらめてたみたいです。
ただ、そのときの相方とはいろいろあってケンカ別れして。その後、当時のバイト先の芸人さんから一緒に組もうと誘われたのでNSCを辞めようとしたんです。そしたら、同期の知り合いに「どうせ辞めるんだったら、庄司と1回やってみれば?」って言われて。で、実際にやってみたらしっくり来た感じですね。庄司とやることになって、ホワイトボードに“品川庄司”ってとりあえず書いたのがそのままコンビ名になっちゃいました。
他事務所ライブでオレたちだけ“シーン”
――メディアに露出してからは、コント漫才を披露されています。コンビ結成時からこのスタイルだった?
品川:養成所時代は漫才で、劇場ではコントをやってました。銀座7丁目劇場(東京都中央区銀座七丁目にあった、吉本興業が運営していた劇場)がなくなるってなったときに、自分たちでお願いして他事務所のライブに出させてもらったことがあるんです。そしたら、オレたちだけ“シーン”って感じだった。
というのも当時は『ボキャブラ天国』の後半にちょこっと出ているような芸人さんとかで、黄色い声援が飛び交ってたんですよ。で、庄司に「コントだとウケないから、漫才でやってみようか」って言って。そこから、他事務所のライブは漫才、吉本の興業はコントをやるようになりました。ネタ番組でも同じように、漫才に切り替えたら調子がよかったんで「テレビでも漫才だな」ってなりましたね。